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源頼朝の命日2017/01/13

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源頼朝墓 源頼朝 は1199年(建久10年)正月13日に亡くなりました。 源頼朝墓 の下にある 白旗神社 は、頼朝を祀る社。 命日には頼朝の功績を称える祝詞が奏されます。 源頼朝顕彰碑 法華堂跡 https://www.yoritomo-japan.com/page041hokedoato.htm ・・・・・・・・・・・

菜の花と富士~二宮町:吾妻山公園~2017/01/12

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吾妻山公園の菜の花。 8分咲きといったところかもしれませんが見頃です。 吾妻山公園は関東の富士見百景 丹沢 箱根 小田原方面 うっすら見えるのは大島 1月7日からは、毎年恒例の「菜の花ウォッチング」が始まっています(2月12日まで)。 詳しくは二宮町観光協会のページで ↓ http://shonan-ninomiya-kankou.com/nanohanaWatching/index.html 吾妻山の名は、日本武尊が弟橘媛命の笄(こうがい)を山頂に埋め、「吾妻はや」と嘆いたことに由来するのだとか・・・。 浅間神社 浅間神社 は、仇討ちで知られる曽我兄弟の姉・花月尼が祀ったのだといわれています。 浅間神社から見える江の島 吾妻神社 吾妻神社 は日本武尊の伝説が残された社。 スイセンも見頃です。 ・・・・・・・・・・・

1月13日は源頼朝の命日

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1199年(建久10年)正月13日、鎌倉に武家の都を築いた 源頼朝 が亡くなります。 鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』は、1196年(建久7年)から1199年(建久10年)の頼朝の死までが欠落しているため詳しい事はわかりませんが、1212年(建暦2年)2月28日条には、「 橋供養 の帰りに落馬し、程なく亡くなった」ことが記録されています。 ただ、どこで落馬したのか、何が原因だったのかは定かではありません。 源頼朝像 ( 源氏山公園 ) 源頼朝 は、1147年(久安3年)、 尾張国 で誕生したといわれています。 父は河内源氏の棟梁・ 源義朝 。 三男でしたが母の家柄から、誕生時から嫡子として育てられたようです。 母は 熱田神宮 大宮司藤原季範の娘で 由良御前 。 1159年(平治元年)の 平治の乱 で 平清盛 に敗れ、 伊豆国 へ流されますが、20年後の1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をして鎌倉を本拠としました。 1185年(元暦2年)、平氏を壇ノ浦に滅ぼし、1189年(文治5年)には 奥州藤原氏 を滅ぼして全国制覇を成し遂げました。 1192年(建久3年)には征夷大将軍に任じられています。 しかし、1193年(建久4年)、 富士裾野の巻狩り で起きた 曽我兄弟の仇討ち 事件は、頼朝の命を狙ったものだったという噂があります。 1195年(建久6年)の上洛は、 東大寺大仏殿 の落慶供養のためという事ですが、真の目的は娘の大姫を入内させることだったともいいます。 その翌年から『吾妻鏡』は欠落。 この時、すでに鎌倉武家政権には必要のない人となってしまったのかもしれません。 頼朝は殺されたのかもしれませんね。 なぜなら、流人で兵も持たない頼朝を挙兵に導いたのは坂東武士。 何のために頼朝を担ぎ上げたのか・・・ その政策が坂東武士の望むものと違う方向に変化していたとしたら・・・ 源頼朝墓 源頼朝 は、持仏堂に葬られたのだと伝えられています。 その持仏堂は奥州征伐の祈願所として建てられたもので、本尊は京都の 清水寺 から下されたという正観音像だったのだといいます。 頼朝が葬られてからは法華堂と呼ばれていたようですが、今はその法華堂はなく、その跡地といわれる場所に江戸時代