別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2017年1月12日木曜日

1月13日は源頼朝の命日

1199年(建久10年)正月13日、鎌倉に武家の都を築いた源頼朝が亡くなります。

鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』は、1196年(建久7年)から1199年(建久10年)の頼朝の死までが欠落しているため詳しい事はわかりませんが、1212年(建暦2年)2月28日条には、「橋供養の帰りに落馬し、程なく亡くなった」ことが記録されています。

ただ、どこで落馬したのか、何が原因だったのかは定かではありません。


源氏山源頼朝像
源頼朝像


源頼朝は、1147年(久安3年)、尾張国で誕生したといわれています。

父は河内源氏の棟梁・源義朝

三男でしたが母の家柄から、誕生時から嫡子として育てられたようです。

母は熱田神宮大宮司藤原季範の娘で由良御前


1159年(平治元年)の平治の乱平清盛に敗れ、伊豆国へ流されますが、20年後の1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をして鎌倉を本拠としました。

1185年(元暦2年)、平氏を壇ノ浦に滅ぼし、1189年(文治5年)には奥州藤原氏を滅ぼして全国制覇を成し遂げました。

1192年(建久3年)には征夷大将軍に任じられています。


しかし、1193年(建久4年)、富士裾野の巻狩りで起きた曽我兄弟の仇討ち事件は、頼朝の命を狙ったものだったという噂があります。

1195年(建久6年)の上洛は、東大寺大仏殿の落慶供養のためという事ですが、真の目的は娘の大姫を入内させることだったともいいます。

その翌年から『吾妻鏡』は欠落。

この時、すでに鎌倉武家政権には必要のない人となってしまったのかもしれません。

頼朝は殺されたのかもしれませんね。

なぜなら、流人で兵も持たない頼朝を挙兵に導いたのは坂東武士。

何のために頼朝を担ぎ上げたのか・・・

その政策が坂東武士の望むものと違う方向に変化していたとしたら・・・


源頼朝墓


源頼朝は、持仏堂に葬られたのだと伝えられています。

その持仏堂は奥州征伐の祈願所として建てられたもので、本尊は京都の清水寺から下されたという正観音像だったのだといいます。

頼朝が葬られてからは法華堂と呼ばれていたようですが、今はその法華堂はなく、その跡地といわれる場所に江戸時代の層塔が建てられています。




源頼朝墓の下には、頼朝を祀る祀る白旗神社があります。

命日に例祭が行われ、武家政権の都を創設した頼朝の遺徳をたたえる祝詞が奏されます。

頼朝が創り上げた武家の都は、1333年(元弘3年)までの約150年の間、武家政権の中心地として栄えました。

ただし、源氏の政権は頼朝、頼家、実朝の三代で終わっています。



現在の源頼朝墓は、江戸期に薩摩藩の島津重豪(しまづしげひで)が建てたもの。

頼朝墓で見られる島津の紋


希義の石と土

源頼朝墓の傍らには弟希義の墓から運ばれた土と石が・・・

源頼朝墓の梛

その横には北条政子が頼朝との愛を誓ったというが植えられています。



源頼朝墓への石段の数は頼朝が亡くなったときの年齢と同じく53段。

大倉幕府跡のサクラ

源頼朝墓への参道(大倉幕府跡)は桜の名所

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