建長寺 は、1253年(建長5年)、 北条時頼 によって創建された我が国初の禅専門道場。 時頼 の父は北条時氏、母は 松下禅尼 (1227年(嘉禄3年)5月14日誕生)。 1246年(寛元4年)、兄 経時 の跡を継いで五代執権となった 時頼 は、反執権勢力を一掃するため、前将軍の 藤原頼経 を追放します( 宮騒動 )。 翌1247年(宝治元年)には、有力御家人の 三浦泰村 を滅ぼし、 得宗 専制政治を確立しました( 宝治合戦 )。 1249年(建長元年)、裁判の迅速化を図るため 評定衆 の下に 「引付」 (ひきつけ)を設置。 1252年(建長4年)には、将軍 藤原頼嗣 を廃し、後嵯峨天皇の皇子・ 宗尊親王 を将軍に迎えました。 国宝梵鐘 1251年(建長3年)11月8日に事始が行われた 建長寺 の建設は、2年後の1253年(建長5年)に終わり、11月25日に供養が行われています。 国宝の 梵鐘 は、1255年(建長7年)、物部重光によって鋳造されたもので、大旦那は時頼、撰文は開山の 蘭渓道隆 。 時頼 は、1256年(康元元年)11月22日に執権を辞し、翌日には、最明寺で 蘭渓道隆 を戒師として出家します(法名は「覚了房道崇」)。 執権職は、極楽寺流(赤橋流)の北条長時に譲りますが、嫡男の 時宗 が成長するまでの間の中継ぎに過ぎなかったことから、その実権は 時頼 が握り続け、「最明寺入道」と呼ばれていました。 出家後の 時頼 には廻国伝説が残されています( 「鉢の木」 )。 出家からちょうど7年後の1263年(弘長3年)11月22日、最明寺で亡くなりました(37歳)。 北条時頼の墓 (明月院) 『吾妻鏡』は、 時頼 のことを「平生から武道をもって君を助け、仁義を施して民を憐れみ、天道の理にかない、人望があった」 と評しています。 さらに、臨終に際しては「手には定印(じょういん)を結び、辞世の頌(じゅ)を唱えて即身成仏のめでたいしるしを示したことは、神仏の再誕である」 と記しています。 また、吉田兼好はその随筆『徒然草』で 時頼 の質素倹約の様子を伝えています( 母松下禅尼の教え )。