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2013箱根大名行列・・・北条早雲ゆかりの地:箱根湯本

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韮山城 、 小田原城 を次々に陥れ、三浦道寸攻略のため、鎌倉に 玉縄城 を築いた 北条早雲 。 早雲 ゆかりの箱根湯本で大名行列が行われます。 早雲寺 北条早雲 の菩提寺 「早雲寺」 では、本堂・庫裡が開放され「北条早雲像」(重文)などの寺宝が特別公開されます。 戦国時代に活躍した火縄銃の操作練習や保存を図るために発足した「小田原北条鉄砲衆」も行列に参加して、随所で火縄銃の演武を行うそうです。

荏柄天神社の絵筆塚祭2013/10/13

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荏柄天神社 では 絵筆塚祭 が行われていました。 参道にはたくさんの行燈が飾られます。 寄せ書き かっぱ筆塚 絵筆塚祭 は かっぱ筆塚 を建てた清水崑を偲ぶ祭。 絵筆塚 荏柄天神社

鎌倉:光明寺のお十夜2013/10/13

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10月12日から15日にかけて行われる 光明寺 の 「お十夜」 。 山門 楼上からの景色 (山門楼上が公開されています。) 光明寺

保存修理が完了した鎌倉:本覚寺の仁王門2013/10/13

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本覚寺 の 仁王門 がきれいになりました。 修理の跡 仁王像は解体修理中です。 仁王さまの解体修理・・・鎌倉:本覚寺 本覚寺

東大寺の復興:重源と鎌倉の禅僧栄西・行勇

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銅造盧舎那仏坐像 1180年(治承4年)12月28日、 平重衡 は 東大寺 ・ 興福寺 を焼き払いました( 南都焼討 )。 焼討によって焼けた 東大寺 を再興したのは大勧進となった 俊乗房重源 。 俊乗坊重源 後白河法皇 や 源頼朝 の助力を得て、1185年(元暦2年)には 大仏 の開眼供養が行われ、1195年(建久6年)には 頼朝 も参列して 大仏殿 の落慶供養が行われました。 大仏殿 1203年(建仁3年)には、再建された 南大門 に 運慶 らによって金剛力士像が造立され総供養が行われています。 重源 は東塔の再建も志しますが1206年(建永元年)に亡くなります(参考: 重源の勧進状 )。 南大門 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 重源 没後に大勧進になったのは 栄西 。 国宝梵鐘が吊されている 鐘楼 は、 栄西 による再建だといいます。 鐘楼 しかし、 栄西 は1208年(承元2年)に焼失した法勝寺の九重塔の再建にかかりきりで、朝廷の助力もそちらに傾けられ、 栄西 が大勧進になったことは東大寺に苦境をもたらしたともいわれています。 ※法勝寺は白河法皇が建てた寺で、皇室の厚い保護を受けていた。 東大寺には「栄西唐墨筆献上状」が残されています。 大仏殿 前に植えられている菩提樹は、1195年(建久6年)に 栄西 が宋より持ち帰ったものを移植したのだといいます。 第三代の大勧進となったのは 栄西 の弟子の 行勇 。 北条政子 や 北条泰時 などの信頼が厚かった 行勇 は、幕府の援助もあって 重源 が固執した東塔の再建を果たしています(1227年(安貞元年)。 東塔は「仏舎利」を納める塔。 重源 の釈尊への尊崇の念は、 東大寺 に残されている 「勧進状」 に表されています。 東大寺 には、 鎮守八幡宮 社壇移転について書かれた 行勇 の自筆書状が残されています。 南都焼討 からの 東大寺 の復興は、 重源 ・ 栄西 ・ 行勇 の三代の任期中にその旧態を取り戻すまでに至りました。 以後も歴代の大勧進職の手で造営・修理が続けられていきました。 行勇 の弟子で 東福寺 開山の円爾(えんに)や 極楽寺 開山の 忍性 、 宝戒寺 開山の円観も

「特別展東大寺」・・・神奈川県立金沢文庫

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神奈川県立金沢文庫 で「特別展 東大寺」が始まりました。 平重衡に焼かれた 東大寺 の復興の歴史を学ぶことができます。 重源 ・後白河法皇・ 源頼朝 。 東大寺 の復興には、当時の実力者が関わりました。 そして、復興の目途としての仕上げは、 運慶 らによる 金剛力士像 の造立です。 「特別展 東大寺」は12月1日まで。 ★特別展 「東大寺-鎌倉再建と華厳興隆-」 ・・・金沢文庫 ★南都焼討と東大寺の再興~重源と源頼朝~ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 東大寺

建長寺と心平寺

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『吾妻鏡』によれば、1253年(建長5年)11月25日、 建長寺 の落慶供養が行われました。 1251年(建長3年)に事始めが行われたということですが、実際は1249年(建長元年)頃から準備が進められていたといいます。 建長寺 建長寺 が建てられた地は処刑地だったといわれ、処刑された者の鎮魂のために 心平寺 が建てられていました。 心平寺 が創建されたのは1249年(建長元年)。 同年、 建長寺 の建立が計画されていました。 のちに 建長寺 の開山に迎えられる 蘭渓道隆 も、この年、 常楽寺 からこの地に移っているといいます。 心平寺 を建立し、それから 建長寺 を建立したのには何か深い意味があったのでしょう。 建長寺 の本尊が地蔵菩薩であるのは、 心平寺 の本尊が地蔵菩薩であったからだといわれています。 心平寺地蔵堂 (横浜三溪園:天授院) 心平寺 の本尊は、 建長寺仏殿 の脇壇に安置されている地蔵菩薩坐像だと伝えられています。 この像の胎内には、無実の罪で処刑されそうになった済田左衛門の身代わりとなった 地蔵菩薩の小像 が納められていました。 そして、 建長寺 が創建されると 小像 は仏殿本尊の胎内に移されたのだといいます。 ※横浜の 三溪園 にある天授院は心平寺跡にあった堂を移築したもの。