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遊びをせんとや生れけむ・・・梁塵秘抄

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「大河ドラマ平清盛」で流れる今様・・・ 「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけむ 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそゆるがるれ」 は、 後白河法皇 の歌謡集『梁塵秘抄』に載せられた歌です。 その意味の解釈は多々あるようですが、一般的には、 「遊ぶために生まれて来たのだろうか。戯れるために生まれて来たのだろうか。遊んでいる子どもの声を聞いていると、私の身体さえも動いてしまう」 ということのようです。 ※「今様」とは、平安時代に流行した歌謡曲のこと。 後白河法皇 は、鳥羽天皇の第四皇子として誕生。母は待賢門院藤原璋子。諱は雅仁。 青年期の雅仁親王は、今様に熱中し、父鳥羽天皇からは「天皇の器でない」という烙印を押され、放蕩生活を送っていたといいます。 ところが、人生というのは不思議なもので、思いもかけない歴史の転回で、天皇に即位することになります。 1155年(久寿2年)7月23日、近衛天皇が亡くなると、朝廷内では次の天皇を誰にするかが問題となりました。 当時の朝廷内の実力者は、鳥羽法皇の妃美福門院藤原得子。 得子は、雅仁親王の子守仁親王を即位させようと考えます。 しかし、父が存命にもかかわらず、子を即位させることはおかしいという議論となり、雅仁親王が即位し、後白河天皇が誕生しました。 この思いがけなく即位した後白河天皇が、 源頼朝 の時代まで長く王者の座に君臨することになります。 『梁塵秘抄』は、治承年間(1177年~1180年)頃の作といわれています。 若き日の後白河法皇が熱中した今様の集大成です。 『梁塵秘抄』は本編10巻、歌い方などに関して綴られた口伝集10巻から成り立っていたと考えられているようです。 ただ、当時の人たちがどのようなメロディーで歌っていたのかは不明です。 大河ドラマ平清盛で流れる 「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけむ 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそゆるがるれ」 という今様について、NHKのページの「よくある質問コーナー」には、 「雅楽の香りを残しつつ、分かりやすくシンプルでありながら、微妙なゆらぎを持ち、繰り返しドラマの中で聴かされても飽きないものとして作曲された」と書かれています。 また、その詞については、 「子ど

鎌倉あきもとの「おにぎり」

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「鎌倉あきもと」 は、 若宮大路 の二の鳥居の横にある漬け物の店。 ドラマ「最後から二番目の恋」で、 小泉今日子さんが試食していた店です。 店に入ったら「黒豆のお茶」をご馳走してくれました。 もちろん「漬け物」は絶品ですが、「おにぎり」も美味しい店です。 外で販売されている「おにぎり」 左から・・・ ★湘南しらす 江の島 のしらす問屋「とびっちょ」の「しらすの佃煮」 ★あさりしぐれ 三重県桑名市の「伊勢しぐれ」の「あさりの佃煮」 ★紅鮭 築地北田水産の「アラスカ産紅鮭」 具材も美味しいですが、「ごはん」がとても美味しい「おにぎり」でした。 夏の「アイスきゅうり」や「アイスなす」も人気があります。 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

源頼朝の御所に狐が入り込んだ日。

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『吾妻鏡』によると、1186年(文治2年)2月4日、 鶴岡八幡宮 別当の円暁が三宝荒神を供養する法会を行っています。 放会を行った理由は以下のとおりです。 理由その1 ~頼朝の寝所に侵入した狐~ 大倉御所 の北山で狐が子を産み、その子が 頼朝 の寝所に入ってきたので、占わせたところ「不快」と出たそうです。 (参考) 2月4日は、 頼朝 の宿敵 平清盛 の命日。 その忌日に狐が御所に入り込むという「怪」が起きました。 平清盛は、「貴狐天王」を弁財天の化身として尊崇し、栄達をとげたといわれています。 ※貴狐天王は、一般に白狐に乗る天女の姿で表されています。 『源平盛衰記』によれば、 ある時、清盛が蓮台野で大きな狐を見つけたので、弓で射とうとすると、狐はたちまち女に変じて、にやりと笑うと・・・ 「私の命を助けてくれたなら、あなたの願いをかなえてあげましょう」と語ったそうです。 清盛が「どのような人であるか」を問うと、「七十四道中の王」と答えたといいます。 清盛は、貴狐天王であることに気付き、馬から下りて敬服すると、女は狐の姿に戻り、鳴きながら去っていったそうです。 その後、清盛は、貴狐天王の修法を行ったといわれています。 理由その2 ~怪異現象~ 去年来、しきりに怪異が起こっていました。 (参考) 『吾妻鏡』によると 12月28日、甘縄辺に所司次郎と呼ばれる男が住んでいました。 真夜中に戸を叩いてこの男を呼ぶ声がしたので、男が戸を開けに出ます・・・ しばらく声がしないので家の者が見に行くと、板戸のところで頓死していたという怪異が起こっています。 これより少し前にも、 鶴岡八幡宮 別当坊の下僧が夜道を歩いていて「頓死しかけて蘇生する」という事件があったそうです。 下僧の話では、大きな坊主と行き会い、いきなり抱きとめられたのだといいます。 しかし、その下僧は、生き返ったものの死人同然だったそうです。 また、 北条政子 に仕える下野局が、 「 景政 と名乗る翁が頼朝に、崇徳上皇が天下を祟っていますが、私が制止しようとしても聞いてくれません。だから、鶴岡八幡宮の別当に話して下さい」 と頼む夢を見たといいます。 このことを聞いた 頼朝 は何も言

東日本大震災一周忌追善法要~鎮魂の万灯会:長谷寺~

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東日本大震災から一年。 長谷寺 では、3月10日に「一周忌追善法要」が行われます。 建長寺 では、3月11日に「追討・復興祈願祭」が行われます。 ★東日本大震災~一年目の祈り~追悼・復興祈願祭・・・建長寺 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

鎌倉:長谷寺の冬景色2012/02/12

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ソシンロウバイ ハクモクレン 蕾がかなり大きくなってきました。 黄梅 厄除阿弥陀堂 ( 長谷寺 の線香は色とりどり) 散策路からの 由比ヶ浜 この季節、 坂ノ下海岸 や 材木座海岸 では、 「わかめ干し」 の風景が見られます。 散策路の 良縁地蔵 長谷寺 境内 散策路のお地蔵さま 経蔵 横のマンサク 経蔵 横のツバキ 春を告げる フクジュソウ ( 鎌倉:長谷寺の福寿草 ) 和み地蔵 放生池の スイセン 長谷寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page136hasedera.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

鎌倉:長谷寺の福寿草

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「福寿草」 は、1月1日の誕生花で別名「元日草」と呼ばれます。 花言葉は「幸福」。 「福寿草」 は、まず花だけが土の上に顔を見せます。 その後、茎や葉が延びてきます。 春を感じさせてくれるきれいな黄色です。 長谷寺 では、放生池の畔などで「幸せの黄色い花」がたくさん咲いてます。 鎌倉の福寿草 http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/fukujyuso.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

破壊された源頼朝墓2012/02/12

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源頼朝墓 報道によると、2012年(平成24年)2月11日昼過ぎ、 法華堂跡 の 「源頼朝墓」 が破壊され、容疑者の男が逮捕されたそうです。 「源頼朝墓」 は、1779年(安永8年)、薩摩藩の島津重豪が建てた多層塔ですが、1989年(平成元年)にも何者かによって破壊され修繕が加えられています。 層塔の最上部が破壊された源頼朝墓 「源頼朝墓」 を中心とする 「法華堂跡」 は国の指定史跡。 『吾妻鏡』によると、 源頼朝 は、1189年(文治5年)7月18日、走湯山(伊豆山権現)の專光坊良暹を呼び出して、聖観音像を本尊とする祈願所を設けることを命じています。 その祈願所が 頼朝 の「持仏堂」です。 頼朝 は、その死後、「持仏堂」に葬られたと伝えられ、以後、「持仏堂」は「法華堂」と呼ばれるようになったといいます。 「源頼朝墓」 は、その後廃された法華堂の跡地に建てられました。 (参考: 源頼朝の守り本尊~正(聖)観音像~ ) 被害の状況は以下のとおり。 ロープが張られ「立入禁止」と掲げられています。 一番上の相輪部分が破壊されたようです。 裏側には相輪部と思われる残骸がありました。 左手前の灯籠は倒され、右側奥の灯籠も上部が落とされています。 白旗神社 の狛犬も破壊されています。 鳥居の前には狛犬が置かれていましたが・・・ 左側の狛犬は、胴体が真っ二つに折られてしまったようです。 右側の狛犬は落ちただけだったのでしょうか・・・? 狛犬が破壊される前の 白旗神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ