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厄除け生姜供養~鎌倉大町:妙法寺~

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1260年(文応元年)8月27日、 日蓮 の松葉ヶ谷の草庵が、他宗徒によって焼討ちされました(松葉ヶ谷法難)。 このとき、どこからともなく白猿が現れ、 日蓮 をお猿畠(逗子市の 法性寺 裏山)に案内したといいます。 おかげで 日蓮 は難を逃れることができました。 日蓮 が非難したという岩窟 日蓮 は、お猿畠の岩窟に身を潜めていました。 その間、白猿が山中で生姜を採ってきて 日蓮 に捧げたと伝えられています。 妙法寺 妙法寺 の 「厄除け生姜供養」 は、このお猿畠での伝説に因んだものです。 生姜を2つに割って、中に味噌を詰め込んで焼いたものが供えられ、一般参詣者にもこれが分けられて供養が行われます。 そして、この生姜には、無病息災のご利益があるといわれています。 ( 妙法寺 は、「生姜寺」とも呼ばれていたようで・・・。) 「厄除け生姜供養」 は、毎年8月27日の松葉ヶ谷法難会のときと、9月12日の 龍口法難会 のときに行われていたようですが、今は、9月12日の 龍口法難会 のときに行われているようです。 松葉ヶ谷御小庵跡の碑 妙法寺 の裏山に建てられています。 参考: 日蓮 は、この年の7月16日に、自ら書き上げた『立正安国論』を 北条時頼 に提出しています(参考: 立正安国論~鎌倉と日蓮~ )。 ※祭事の日程等については、確認してからお出掛け下さい。 日蓮 厄除け生姜 https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/yakuyoke-shoga.htm 妙法寺 https://www.yoritomo-japan.com/page126myohoji.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

渋谷重国と佐々木四兄弟~石橋山の戦い~

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渋谷重国 は、相模国高座郡渋谷庄を領していた武将です(現在の藤沢市、綾瀬市、大和市にまたがる地域です。)。 重国 は、 平治の乱 後、 奥州 へ逃れようとしていた佐々木秀義とその子を引き止め、娘を秀義に嫁がせ婿としています。 以後20年に亘って、秀義父子は 重国 の保護を受けていたといいます。 早川城址 渋谷重国の居城 「早川城」 は、現在の綾瀬市にありました。 源頼朝 の 挙兵 に参じて活躍した佐々木四兄弟。 嫡男: 定綱 母は 源為義 (頼朝の祖父)の娘。 山木館襲撃 では、 山木兼隆 の後見役だった堤信遠を討ち取っています。 次男: 経高 母は 宇都宮氏 の娘。  兄定綱とともに堤信遠を攻め、 頼朝 と平氏との戦いの一番矢を放ちました。 三男: 盛綱 母は 源為義 の娘。 頼朝 には、1166年(仁安元年)から仕えています(16歳)。 山木館襲撃 では、 加藤景廉 とともに 山木兼隆 を討ち取りました。 のちに鎌倉の小動岬に近江の八王子宮を勧請しています( 小動神社 )。 四男: 高綱 母は 源為義 の娘。 山木館襲撃 では、兄定綱・経高とともに堤信遠を討ち取ります。 石橋山 での敗戦後、椙山の堀口に陣を布いた 頼朝 をよく守りました。 のちの 「宇治川の戦いでの先陣争い」 で知られている武将です。 横浜市港北区の 鳥山八幡宮 付近には高綱の館があったといわれ、近くには名馬 「生食」 を祀る 馬頭観音堂 があります。 宇治川先陣の碑 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』によれば・・・ 1180年(治承4年)8月9日、 大庭景親 に呼び出された秀義は、「源頼朝討伐の密事」を聞きます。 翌日、秀義は、その話を 頼朝 に伝えるため、嫡男定綱を使わしています。 11日、定綱は 頼朝 のもとに到着して 景親 の密事を報告し、14日朝に渋谷庄への帰路についています。 頼朝 は止めたそうですが、甲冑を用意して参上する旨を申し上げ、暇をもらったということです。 このとき 頼朝 は、定綱に「16日には戻って来るように」と伝えるとともに、 渋谷重国 に対て手紙を書いたといいます。 現在の早川城址の周辺 早川城址 は、綾瀬市役所にほど近い所にあります。 かなり開発が進んでいます

石橋山の戦いと衣笠合戦~三浦義明の討死~

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『吾妻鏡」によれば・・・ 1180年(治承4年)8月22日、 三浦一族 は、 源頼朝 を応援するため三浦を発ち、23日には酒匂川まで進軍しますが、折からの雨で酒匂川を渡ることが出来ず、 石橋山の戦い に間に合うことができませんでした。 翌8月24日、 頼朝 の敗戦を知った三浦軍は、仕方なく帰路につきます。 しかし、その途中の 由比ヶ浜 で 畠山重忠 軍に遭遇し合戦となってしまいます( 小坪合戦 )。 この合戦で、 三浦義明 の孫多々良重春が討死しています。 一方の畠山軍も多数の被害を受けました。 三浦義明と多々良重春の五輪塔 (鎌倉:来迎寺) 材木座の 来迎寺 は、 源頼朝 が 三浦義明 の菩提を弔うために建立した能蔵寺を前身としています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 8月26日、 畠山重忠 は、「平家の重恩に報いるため」と「由比ヶ浜の雪辱のため」に、三浦軍を攻撃します。 このとき、 河越重頼 と 江戸重長 に協力を要請しています。 畠山重忠邸跡 (鎌倉) 畠山重忠像 (畠山重忠公史跡公園:深谷市) 畠山重忠は、 頼朝 の挙兵時には 大庭景親 に従いますが、 頼朝 が鎌倉に入るときは、先鋒を任されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 三浦一族 は、 衣笠城 に立て籠もり、 東木戸(大手口)は、 三浦義澄 ・ 佐原義連 西木戸は、 和田義盛 ・金田頼次 中陣は、長柄義景・大多和義久 が配置されます。 衣笠城 (横須賀市) そして、河越重頼ら数千騎が攻めてきました。 義澄 らもよく戦いますが、 由比ヶ浜 での合戦の疲れもありましたし、矢も不足してきたので城を捨てることにします。 三浦義明 しかし、 三浦義明 は、 「源家累代の家人として、幸せなことに貴種再興の時に出会えた。 わしの歳は80を越えているので、先は幾らでもない。 今、この命を頼朝様に捧げて、子孫の勲功としたい。 お前達は急いで退去し、頼朝様を尋ねよ。 わしは、城に残り、 河越重頼に多勢の兵がいるように見せかける」 といって城を出ませんでした。 義澄 らは、泣きながら 義明 の命に従うことにします。 翌8月27日、 三浦義明 は、

源頼朝を助けた武将たち~石橋山の戦い~

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『吾妻鏡』によると・・・ 1180年(治承4年)8月24日、 石橋山の戦い に敗れた 源頼朝 は、椙山の堀口という辺りに陣を構えたといいます。 追ってくる 大庭景親 の軍勢に対し、 頼朝 に供した武将はよく防戦します。 土肥実平夫妻像 (JR湯河原駅前) 土肥実平 は、湯河原・真鶴を本拠としていた武将。 石橋山の戦い に敗れた 頼朝 を助け、真鶴から安房に渡る手引きをしたと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~頼朝を探して 供するよう命じた北条時政~ 北条時政 ・宗時・ 義時 の親子も 景親 の軍勢と戦っていましたが、戦いに疲れ峰を登れずにいたため、 頼朝 とは行動をともにはしてはいませんでした。 時政 らに供をしていた武将は、「時政にお供していきたい」と申し出ますが、 時政 は、「早く頼朝を捜してお供をするように」と命じたといいます。 時政 の命令に従った武将たちが、崖をよじり登っていくと、臥木の上に 頼朝 が立ち、傍らに 土肥実平 がいました。 ~集まった武将を分散するよう 提案した土肥実平~ 多くの者が集まってきたことで、 頼朝 は大変喜びますが・・・ 土肥実平 は、 「皆が集まったことは喜ぶべきことだが、 この大人数では、山中に隠れているのが難しい。 頼朝様一人であれば、この後、たとえ10日であろうと一月であろうと、 実平が計略を加えて隠すことができる」 と述べます。 しかし、 皆、「頼朝の供をしたい」といい、 頼朝 自身もそうあってほしいと考えていたようでしたので、 実平 は再度、 「今別れることは、のちの大幸である。 皆が命を全うし、今後の計画を巡らせば、恥を注ぐことができる」 と述べます。 こうして、皆が別れていきましたが、涙が眼を遮り道がよく見えなかったといいます。 城願寺の七騎堂 湯河原の 城願寺 は、 土肥実平 の菩提寺です。 七騎堂 には、 頼朝 が安房に向かうときに従った武将が祀られています。 安達盛長 、 岡崎義実 、新開忠氏、土屋宗遠、 土肥実平 、 田代信綱 、そして 源頼朝 。 ~頼朝の数珠を探してきた飯田家義~ その後、 頼朝 を椙山に手引きした 飯田家義 が、 頼朝 が落とした数珠を持ってやってきます。