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初夏の材木座海岸を散策

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光明寺 の門前は 材木座海岸 です。 一般的に飯島岬から 滑川 までの間を 材木座海岸 と呼んでいます。 飯島岬 鎌倉と逗子の境界にあります。 飯島は・・・ 源頼朝 の旗挙時に三浦氏と畠山氏が激突し( 小坪合戦 )、 頼朝 が鎌倉に入ってからは愛人を匿っていた場所でもあります。 https://www.yoritomo-japan.com/kodou-kotubo.htm 和賀江嶋 現存する我が国最古の築港遺跡です。 三代執権 北条泰時 の時代に造られました。 https://www.yoritomo-japan.com/page135wakaejima.htm 豆腐川河口 日蓮 が伊豆流罪となったときに船出した場所といわれています。 妙長寺 は当初この辺に建てられたのだそうです。 今の季節、海岸では ハマヒルガオ が咲いています。 源頼朝 が 鶴岡八幡宮 をい造営するとき、その材木を陸揚げしたのがの 材木座海岸 だったといいます。 そして、その際に人夫が勇ましく謡っていたのが「鎌倉天王唄」だったと伝えられています。 正月に行われる 「潮神楽」 では「天王唄」が奉納されます(参考: 材木座海岸の汐まつり(汐神楽) )。 材木座海岸 https://www.yoritomo-japan.com/umi-zaimokuza.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

光明寺のサツキ~三尊五祖の石庭~

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光明寺 の 「三尊五祖の石庭」 のサツキが見頃です。 石庭奥に置かれている3つの石は、阿弥陀三尊(阿弥陀(中央)、観音(右)、勢至(左))を表しています。 手前に置かれている5つの石は、右から釈迦、善導、法然、鎮西、記主(浄土五祖)を表しています。 植えられているサツキは衆生を表し、 敷石は紫雲を表しているそうです。 花がない時の石庭 三尊五祖の石庭 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/komyoji-sansongoso.htm 光明寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page135komyoji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

平清盛と源頼朝

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1159年(平治元年)、 平治の乱 が勃発します。 源頼朝 の父 義朝 は、 平治の乱 に加わり 平清盛 に敗れました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 義朝 軍には、子の 義平 (20歳)、 朝長 (16歳)、 頼朝 (13歳)をはじめ、鎌田政清、佐々木秀義、山内首藤俊道、 上総介広常 、 千葉常胤 、 三浦義澄 、 熊谷直実 などが従っていました。 平治の乱 (平治物語絵巻) 源義朝 は、 平清盛 の熊野参詣中を狙って三条殿に夜討ちをかけますが・・・。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 平治の乱 に敗れた 義朝 は、東国で再起するため雪の中を落ちのびます。 『平治物語』には、 義朝 、 義平 、 朝長 、 頼朝 、源重成、平賀義宣、鎌田政清、金王丸の八騎の逃避行が描かれています。 しかし、まだ幼い 頼朝 は、馬上で疲れ果てて居眠りをし、この一行からはぐれてしまいます。 ただ、 義朝 が長田忠致に暗殺されてしまうことを考えると、居眠りをして一行とはぐれたことは「頼朝にとっては運が良かった」ということになるのでしょう。 義朝 に従っていた鎌田政清、金王丸は、 義朝 とともに長田忠致によって殺され、 朝長 は逃亡中に落武者狩にあった折の傷が悪化し、 義朝 に頼んで首を刎ねてもらい最期を遂げたのだといいます。 義朝 と別れて兵を募るため北国へ向かった 義平 も捕らえられ処刑されています。 勝長寿院跡 (鎌倉) 源義朝の墓 (愛知県美浜町) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 義朝 一行とはぐれた 頼朝 は、後を追って美濃の青墓まで辿り着きますが、平頼盛(平清盛の異母弟)の家人平宗清に捕らえられ、1160年(永暦元年)2月9日、 六波羅 に送られました。 平清盛 は 頼朝 の処刑を決定しますが、清盛の継母 池禅尼 の助命嘆願により助けられたといいます。 『平治物語』では、池禅尼が 頼朝 を助けた理由を「頼朝が死んだ我が子家盛に生き写しだったから」と描いているようです。 池禅尼に家盛に似ていると告げたのは 頼朝 を捕らえた平宗清だったともいいます。 また、『愚管抄』には、保元の乱の折、 池禅尼 が実子頼盛に対し清盛方につくよう命じたことで一門の分裂が避けられたことが記されています。 池禅尼

釈迦堂切通と大町釈迦堂口遺跡

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源頼朝 が創建した 勝長寿院 があった大御堂ヶ谷の東側が釈迦堂ヶ谷になります。 釈迦堂ヶ谷の奥には大町へと通じる洞門(隧道・トンネル)があります。岩山を切り開いた切通( 釈迦堂切通 )です。 浄明寺側から見た洞門 釈迦堂ヶ谷には、1225年(嘉禄元年)、三代執権 北条泰時 が父 義時 の菩提を弔うために建てた 釈迦堂 があったといいます。 本尊は、清涼寺式釈迦如来だったといわれ、 釈迦堂 の廃絶後 杉本寺 に移され、現在は東京目黒の大円寺の釈迦像がそれだといわれています。 釈迦堂切通 の西谷には、「釈迦堂ヶ谷やぐら群」があって、 宝戒寺 二世住持の普川国師が生きたまま禅定に入ったとされる「普川国師入定窟」を中心に、50穴ほどのやぐらが群をなしていたそうです。 「釈迦堂ヶ谷やぐら群」の発掘調査では、「元弘三年五月二十八日」の日付が刻まれた五輪塔の地輪も発見されています。 この日は鎌倉幕府滅亡の折、 東勝寺 で自刃した 北条高時 ら一族の初七日にあたります。 これによって「普川国師入定窟」は、自刃した 高時 以下の供養窟であったのではないかと考えられています。 大町側から見た洞門 釈迦堂切通 の洞門の上にもやぐら群があって、そのうち一つ 日月やぐら は知られています。 また、大町側の洞門東側( 衣張山 の東)は、長く 北条時政 の 名越亭 があった場所と言われてきました。 『万寿姫物語』 にある唐糸が閉じこめられたという土牢( 唐糸やぐら )があります。 しかし、最近の発掘調査の結果、 名越亭 ではなかったことが判明しています。 未知の廃寺跡の可能性が高いそうで、遺跡名も「大町釈迦堂口遺跡」と変更されました。 「大町釈迦堂口遺跡」は、昨年、国の史跡に指定されています。 昔は、大町~浄明寺間の近道として利用されていたようですが、現在は通行止めとなり、昨年には大規模な崩落があったため近づくこともできなくなってしまいました。 釈迦堂切通 https://www.yoritomo-japan.com/kodou-3.htm 鎌倉の古道 https://www.yoritomo-japan.com/kodou-top.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-jap

建長寺の鎮守・・・半僧坊大権現

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建長寺 の方丈の外側の道は半僧坊への参道です。 途中には、作家葛西善蔵にゆかりのある茶屋 「招寿軒」 の建物や、江戸時代の土木事業家 河村瑞賢の墓 があります。 招寿軒と達磨大師像 長い石段を登ると 半僧坊大権現 です。 建長寺 の裏山は「勝上献」(しょうじょうけん)と呼ばれ、標高は145メートルです。 (※「献」の字は上には、「山」の字が入ります。) 半僧坊大権現 は、勝上献の中腹にあります。 半僧坊大権現 は天狗の姿をしています。石段を登っていくとやがて天狗の像が迎えてくれます。 戦時中には鉄製の天狗像が供出されてしまいますが、現在は復興されています。 半僧坊大権現 1890年(明治23年)、霄貫道(あおぞらかんどう)和尚が、 静岡の奥山方広寺から勧請しました。 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kentyoji-hansobo.htm 半僧坊大権現 正面の見晴台からは 建長寺 の諸堂を見下ろすことができ、 遠くには相模湾を臨むこともできます。 左手の見晴台からは富士山を臨むことができます。 地蔵堂 鎌倉二十四地蔵 の一つ「勝上献地蔵」が祀られています。 江戸中期に 報国寺 の杲峰和尚によって復興されたそうです。 地蔵堂からの石段を登ると 天園ハイキングコース です。 半僧坊大権現 の近くにある洞窟は、「開山修行窟」と呼ばれるそうです(どこにあるかわかりませんが・・・)。 建長寺 開山の 大覚禅師 が洞窟でいつものように坐禅をしていると、 時宗 開祖の一遍上人が訪ねてきました。 一遍上人は、 「躍りはねて 伏してだにもかなわぬを いねむりしては いかがあるべき」 と問いかけます。 すると大覚禅師は、 「躍りはね庭に穂ひろう小雀は 鷲のすみかをいかが知るべき」 とやりかえしたといいます。 半僧坊大権現 の周辺のカエデには、 翼果とよばれる実がたくさんついていました。 半僧坊大権現 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kentyoji-hansobo.htm 建長寺 http://www8.plala.or.jp

日除け措置が完了した大銀杏・・・~鶴岡八幡宮~

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鶴岡八幡宮 の 大銀杏 は、日除けのための作業が行われていましたが、 これで日除けの措置は完了ですかね。 今年5月18日の写真 私には、やっと出てきた葉もなくなってしまったように見えました。 ・・・・・・。 鶴岡八幡宮 https://www.yoritomo-japan.com/page041hatiman.htm 鶴岡八幡宮の大銀杏 https://www.yoritomo-japan.com/hana-kesiki/ooityo-hatiman.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

鎌倉:光則寺のクジャク・・・クースケ

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鎌倉の 光則寺 には、「クースケ」(雄)と「クーコ」(雌)というクジャクがいます。 雄が二羽いるので、どちらがクースケなのかわかりませんが・・・ とりあえず写真は全てクースケだということで・・・。 光則寺 北条時頼 の家臣宿谷光則は、 日蓮 に帰依し自邸を寺としました。それが 光則寺 です。 鎌倉でも知られた花の寺。