別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年6月1日水曜日

釈迦堂切通と大町釈迦堂口遺跡

源頼朝が創建した勝長寿院があった大御堂ヶ谷の東側が釈迦堂ヶ谷になります。

釈迦堂ヶ谷の奥には大町へと通じる洞門(隧道・トンネル)があります。岩山を切り開いた切通(釈迦堂切通)です。


浄明寺側から見た洞門


釈迦堂ヶ谷には、1225年(嘉禄元年)、三代執権北条泰時が父義時の菩提を弔うために建てた釈迦堂があったといいます。

本尊は、清涼寺式釈迦如来だったといわれ、釈迦堂の廃絶後杉本寺に移され、現在は東京目黒の大円寺の釈迦像がそれだといわれています。

釈迦堂切通の西谷には、「釈迦堂ヶ谷やぐら群」があって、宝戒寺二世住持の普川国師が生きたまま禅定に入ったとされる「普川国師入定窟」を中心に、50穴ほどのやぐらが群をなしていたそうです。

「釈迦堂ヶ谷やぐら群」の発掘調査では、「元弘三年五月二十八日」の日付が刻まれた五輪塔の地輪も発見されています。

この日は鎌倉幕府滅亡の折、東勝寺で自刃した北条高時ら一族の初七日にあたります。

これによって「普川国師入定窟」は、自刃した高時以下の供養窟であったのではないかと考えられています。


大町側から見た洞門


釈迦堂切通の洞門の上にもやぐら群があって、そのうち一つ日月やぐらは知られています。

また、大町側の洞門東側(衣張山の東)は、長く北条時政名越亭があった場所と言われてきました。

『万寿姫物語』にある唐糸が閉じこめられたという土牢(唐糸やぐら)があります。

しかし、最近の発掘調査の結果、名越亭ではなかったことが判明しています。

未知の廃寺跡の可能性が高いそうで、遺跡名も「大町釈迦堂口遺跡」と変更されました。

「大町釈迦堂口遺跡」は、昨年、国の史跡に指定されています。




昔は、大町~浄明寺間の近道として利用されていたようですが、現在は通行止めとなり、昨年には大規模な崩落があったため近づくこともできなくなってしまいました。






釈迦堂切通
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鎌倉の古道
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鎌倉手帳
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