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縁結び十一面観音~佐助稲荷神社~

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5月18日は、縁結びで知られる 佐助稲荷神社 の十一面観音が開帳される日です。 この小さなお堂の中には、良縁に恵まれず出家した赤松幸運が彫ったという十一面観音が安置されています。 鎌倉では縁結びの仏さまとして知られています。 般若心経と観音経の読経が行われた後、参拝者がお線香をあげていました。 佐助稲荷神社 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page137sasukeinari.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

大銀杏に日除け~鶴岡八幡宮~

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昨年3月に倒伏し移植された 鶴岡八幡宮 の 大銀杏 。 昨年は、たくさんの新芽が出てきて、ひとまず安心しましたが、今年は、日除けの措置が施されるようです。 (参考: 鶴岡八幡宮の大銀杏2010 ) 4月24日には新しい芽が出ていました。 しかし・・・ 今日の大銀杏は、こんな感じです。 日除けのための措置のようですが・・・。 どうも、勢いがありません。 根が部分からは、緑が観察できません。 がんばれ!大銀杏! 鶴岡八幡宮 https://www.yoritomo-japan.com/page041hatiman.htm 鶴岡八幡宮の大銀杏 https://www.yoritomo-japan.com/hana-kesiki/ooityo-hatiman.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

英勝寺のキショウブ

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山門が再建された 英勝寺 のキショウブです。 英勝寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page137eishoji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

英勝寺の三霊社権現

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英勝寺 の 三霊社権現 は、山門復興工事のため長らく拝観することができませんでした。 (※山門復興工事は完了し5月16日に落慶法要が行われています。) 山門横の崖に掘られた洞窟です。 洞窟内に入ることができます。 洞窟の内部です。 洞窟は10メートルほどの長さです。 反対側の出入口です。 英勝寺 https://www.yoritomo-japan.com/page137eishoji.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

復興された英勝寺山門

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英勝寺 の山門は、1643年(寛永20年)8月16日、水戸家初代の徳川頼房の子松平頼重(讃岐高松藩主)によって建立されたといいます。 しかし、山門は関東大震災で倒壊してしまいます。 資産家に買い取られた山門は、長らく 山王ヶ谷 の私有地に移築されていましたが、その土地が宅地開発されることになったため、2001年に 英勝寺 が買い戻しました。 そして、2007年より復興が開始され、工事が本年完了し、5月16日に落慶法要が営まれています。 山門の部材からは、後水尾上皇宸筆の扁額が発見されたそうです。 山門を建立した松平頼重は、水戸藩主徳川頼房の長子でしたが、 頼房は、尾張徳川家・紀州徳川家に男子がいなかったのに遠慮し、懐妊時に堕胎を命じたそうです。 堕胎せずに済んだのは 英勝寺 を建立した英勝院の助けがあったからだと伝えられています。 頼重の同母弟は、『新編鎌倉志』を編纂した徳川光圀です。 頼房の世継ぎとされ二代水戸藩主となりますが、光圀も正室の子ではなかったことから懐妊時に堕胎を命じられたといいます。 1642年(寛永19年)、頼重は高松藩主となります。その年の8月、英勝院が亡くなり、 英勝寺 に葬られました。 英勝院の墓 徳川光圀が建てたという祠堂の裏にあります。 煌びやかな祠堂には英勝院の位牌が安置されているそうです。 英勝院は、太田道灌の子孫で徳川家康の側室となります。 「お勝の局」と呼ばれ、30歳のときに家康の六女市姫を出産しますが四歳で夭折してしまいます。 不憫に思った家康は水戸家初代となる徳川頼房の養母としたそうです。 家康の死後「英勝院」と称し、徳川家光より扇ヶ谷の太田道灌の旧跡を賜り菩提寺となる 英勝寺 を建立しました。 初代住職には頼房の娘玉峯清因が迎えられています。 英勝寺仏殿 本尊は徳川家光寄進の阿弥陀三尊像。 運慶作と伝えられています。 英勝院が亡くなった翌年の8月には、頼重と光圀が 英勝寺 を訪れています。 光圀は、兄頼重の子綱條を養子に迎え水戸藩を継がせています。光圀の子頼常は兄頼重の養子となり高松藩を継ぎました。 山門蟇股の彫刻

質素倹約と北条時頼~吉田兼好:徒然草~

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吉田兼好の『徒然草』には、 北条時頼 と大仏宣時が味噌を肴に酒を飲んだことが書かれています。 (※大仏宣時は 北条貞時 の時代に 連署 を務めた人物です。) 『前賢故実』より (国会図書館デジタルコレクション) ある宵、宣時のもとに時頼からの使者が来て、 「すぐ来るように」 とのことでした。 宣時は、直垂の準備がなくぐずぐずしていると、 再び使者が来て、 「夜なのだからどんな服装でもよいから早く来い。」 とのこと。 宣時がかけつけると、時頼は銚子と土器を持って出てきました。 そして、 「ひとりで酒を飲むのがさびしいので来てもらったが、これといった肴もない。何か台所から探してきてくれないか」 と頼まれました。 宣時は、土器の中に味噌が残っているのを見つけると、 時頼は、 「これでいい」 といって二人で酒を飲んだといいます。 北条執権邸旧跡碑 宝戒寺 に建てられている石碑です。 北条時頼 の館もこの辺りにあったものと思われます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 北条時頼 の母は、松下禅尼です。 『徒然草』には、松下禅尼が時頼に質素倹約の心を教えたことも記されています。 『前賢故実』より (国会図書館デジタルコレクション) ある日、時頼は母に招かれ母の家を訪れます。 すると、母は障子の切り張りをしていました。 松下禅尼の兄安達義景が、 「そのようなことは誰かにやらせます。」 というと、 「私より上手に貼れる者はいないでしょう。」 といって、障子の破れたところのみを丁寧に張っていたそうです。 それを見た義景は、 「全部張り替えた方が簡単ですし、見栄えも良いでしょう。」 というと、 「今日はわざとこうしておくのです。物は修理して使うものだということを時頼に教えるためです。」 と答えたといいます。 安達盛長邸址碑 甘縄神明神社 に建てられた石碑です。 松下禅尼は源頼朝に仕えた 安達盛長 の孫にあたります。

北条時頼の廻国伝説~いざ!鎌倉~

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1246年(寛元4年)3月23日、 北条時頼 は兄 経時 から執権職を譲られ、1256年(康元元年)11月22日にその職を降りています。 この年は、鎌倉で赤斑瘡(あかもがき=はしか)が大流行し、 時頼 や 宗尊親王 もこれにかかったといわれています。 北条時頼廟 (明月院・最明寺跡) 執権を辞任して出家した 時頼 は、自ら建立した最明寺に隠居し「最明寺入道」と呼ばれました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 執権を辞任し出家した後の 時頼 には、諸国を廻ったという伝説が残されています。 その一つが謡曲『鉢の木』で知られる佐野源左衛門尉常世の物語です。 ある大雪の夜、上野国佐野荘のあばら家に一人の旅僧が宿をもとめてきました。 家にいた婦人は、主人が留守だったため断りますが、帰ってきた主人がその話を聞くと、旅僧を追いかけ呼び戻しました。 主人は、いろりの薪がなくなると秘蔵の鉢植の梅・松・桜を囲炉裏にくべてもてなしたそうです。 旅僧が主人の素性をたずねると、もとは佐野荘の領主だった佐野源左衛門尉常世と名乗ります。 そして、「一族に土地を奪われ、今はこのように落ちぶれているが、 「いざ鎌倉!」というときには、一番に鎌倉に馳せ参じ忠勤を励む所存である」と語ります。 翌朝、旅僧は主人に礼を述べて家を辞します。 それからしばらくして、鎌倉からの動員令が諸国の武士に下されました。 常世もその噂を耳にし、破れた具足をつけ、錆びた長刀を持ち、やせ馬にまたがって「いざ鎌倉!」と馳せ参じました。 みすぼらしい姿に集まった人々の嘲笑を買う中、幕府の役人から呼び出しを受けます。 みっともない格好を叱責されるのかと思いながら、おそるおそる前に進み顔をあげると、そこにはあの大雪の夜の旅僧の顔がありました。 その旅僧こそ前の執権北条時頼でした。 時頼は一宿一飯の恩義を受けた礼を述べ、あの夜の話のとおりに馳せ参じたことをほめたたえ、 佐野荘の安堵を約束した上、 薪として使った鉢の木にちなんで、 上野国松井田荘、越中国桜井荘、加賀国梅田荘を常世に与えたのだといいます。 東京都立図書館蔵 鎌倉時代の歴史書『増鏡』によると、 時頼 は出家してから諸国を歩き、不満を訴える人々に自らの文を手渡してい