この年は、鎌倉で赤斑瘡(あかもがき=はしか)が大流行し、時頼や宗尊親王もこれにかかったといわれています。
(明月院・最明寺跡)
執権を辞任して出家した時頼は、自ら建立した最明寺に隠居し「最明寺入道」と呼ばれました。
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執権を辞任し出家した後の時頼には、諸国を廻ったという伝説が残されています。
その一つが謡曲『鉢の木』で知られる佐野源左衛門尉常世の物語です。
ある大雪の夜、上野国佐野荘のあばら家に一人の旅僧が宿をもとめてきました。
家にいた婦人は、主人が留守だったため断りますが、帰ってきた主人がその話を聞くと、旅僧を追いかけ呼び戻しました。
主人は、いろりの薪がなくなると秘蔵の鉢植の梅・松・桜を囲炉裏にくべてもてなしたそうです。
旅僧が主人の素性をたずねると、もとは佐野荘の領主だった佐野源左衛門尉常世と名乗ります。
そして、「一族に土地を奪われ、今はこのように落ちぶれているが、
「いざ鎌倉!」というときには、一番に鎌倉に馳せ参じ忠勤を励む所存である」と語ります。
翌朝、旅僧は主人に礼を述べて家を辞します。
それからしばらくして、鎌倉からの動員令が諸国の武士に下されました。
常世もその噂を耳にし、破れた具足をつけ、錆びた長刀を持ち、やせ馬にまたがって「いざ鎌倉!」と馳せ参じました。
みすぼらしい姿に集まった人々の嘲笑を買う中、幕府の役人から呼び出しを受けます。
みっともない格好を叱責されるのかと思いながら、おそるおそる前に進み顔をあげると、そこにはあの大雪の夜の旅僧の顔がありました。
その旅僧こそ前の執権北条時頼でした。
時頼は一宿一飯の恩義を受けた礼を述べ、あの夜の話のとおりに馳せ参じたことをほめたたえ、
佐野荘の安堵を約束した上、
薪として使った鉢の木にちなんで、
上野国松井田荘、越中国桜井荘、加賀国梅田荘を常世に与えたのだといいます。
東京都立図書館蔵
鎌倉時代の歴史書『増鏡』によると、時頼は出家してから諸国を歩き、不満を訴える人々に自らの文を手渡していたといいます。
その文を鎌倉に持参すると善処してもらえたのだとか。
『太平記』には・・・
姿をやつして摂津国難波浦を訪れたときの出来事が記されています。
時頼は、日も暮れたので、みすぼらしい尼の家に宿を借りました。
尼はこころよく泊めてくれましたが、翌朝の食事のときに、
「我が家は先祖より地頭職を有していましたが、その地頭職を横領されてしまいました」
と泣きながら語ったといいます。
これを聞いた時頼は、位牌の裏になにやら記してその家を辞しました。
鎌倉に戻った時頼は、尼に位牌を持参するよう伝え、尼の本領を安堵したのだといいます。
「仁」をもって政治改革を行った北条時頼は、1263年(弘長3年)11月22日、最明寺で亡くなりました。
実際に時頼が諸国を廻ったのかどうかはわかりませんが、これらの伝説は御家人・民のための幕政改革を行い、「名執権」と呼ばれた北条時頼ならではのものなのかもしれません。
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明月院と言えばアジサイ!