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旧石井家住宅~鎌倉:龍寳寺~

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鎌倉市植木にある 龍寳寺 の「石井家の住宅」です。 旧石井家住宅 鎌倉市関谷から移築された江戸時代の民家です。 石井家は後北条時代の地侍で、近世では名主をつとめていたといいます。 この建物は、神奈川県に多い「三間取り四方下家造り」と呼ばれる典型的な農家の造りで、元禄期の頃の住宅と考えられています。 ※戸口や窓が少なく閉鎖的な建物です。 「石井家の住宅」は、鎌倉市関谷1575にありましたが、石井家の菩提寺である 龍寳寺 の当時の住職が寄贈を受けて境内に移築し保存しています。 昭和44年6月20日に国の重要文化財の指定を受けた建物です。 これは何をする道具かわかりますでしょうか・・・? 併設されている「玉縄民俗資料館」には、昔の農家の道具などの民俗資料が展示されています。 龍寳寺 https://www.yoritomo-japan.com/page140ryuhoji.htm

新井白石の碑~鎌倉:龍寳寺~

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龍寳寺 には、「新井白石の碑」があります。新井白石は植木に家禄を与えられていたことから、この地に碑があるのだということです。 新井白石の碑 1725年(享保10年)、室鳩巣の撰した碑です。 室鳩巣は、徳川幕府で、 家宣、家継、吉宗の三代に仕えた儒学者です。 新井白石に関する碑だということですが、 銘文の判読はできない状態です。 新井白石は、徳川綱豊の儒臣となって、綱豊が六代将軍家宣となると幕政に参画します。 七代将軍家継にも仕え、「正徳の治」を行いました。 朝鮮使節使の来訪のときには、藤沢の宿まで出迎え、 龍寳寺 を宿舎として使用しています。 龍寳寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page140ryuhoji.htm

鎌倉の端午の節句

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5月5日は「端午の節句」です。 「端午」とは、端(はじめ)の午(うま)という意味で、「午の月(5月)の最初の牛の日」のことをいったそうです。 つまり、「5月5日」を指す言葉ではありませんでした。 その後、「午」を「五」として考え、5月5日を「端午の節句」と呼ぶようになったということです。 鯉のぼり 端午の節句には、「鯉のぼり」が立てられます。 鯉は、「滝を逆上りするたくましい魚で、逆境にもめげずどんどん上に昇る出世魚」と呼ばれているからなのだそうです。 写真の「鯉のぼり」は、城廻でみつけた鯉のぼりです。 補陀洛寺 の「鯉のぼり」 ~菖蒲~ 端午の節句には「菖蒲」と「よもぎ」が供えられますが、高い香りによって邪鬼を追い払う意味があるそうです。 菖蒲祭 鶴岡八幡宮 では神前に菖蒲が供えられます。 http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/shobusai.htm 清正公祭 大町の 妙法寺 では、 菖蒲の入った「清正公勝守」が授与されます。 http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/kiyomasakosai.htm 草鹿 鎌倉宮 で行われる草鹿では、 勝ち組の大将に菖蒲が授与されます。 http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/kusajisi.htm 鎌倉の祭・行事 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/gyoji-maturi/gyoji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

酒好き和尚と古狸~延命寺~

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江戸時代も終わり頃、大町の 延命寺 には、酒好きの和尚が、このあたりに棲みついていた狸に、晩酌の酒を買いにやらせていたという話が残されています。 古狸塚 延命寺 の本堂の裏に建てられています。 今ではすぐ後ろにJR横須賀線が通っていますが、 昔の 延命寺 は、横須賀線の線路の向こうまでが境内だったそうです。 和尚にも村人にも可愛がられていた狸が死ぬと、人々は狸を葬り碑を建てて供養しました。 それが 延命寺 にある古狸塚だということです。 延命寺 https://www.yoritomo-japan.com/page043enmeiji.htm <

北条時頼夫人の身代わりとなったお地蔵さま~延命寺~

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延命寺 の地蔵菩薩像には伝説が残されています。 ある日、 北条時頼 とその夫人が双六をして、負けた方が裸になるという賭けをしていました。 その結果、夫人が負けてしまいます。 すると、夫人が常日頃信仰していた地蔵菩薩が裸で現れ、夫人の身代わりになったといいます。 延命寺 の地蔵菩薩像は、夫人の身代わりとなった地蔵菩薩の化身として彫られたもので、女性の姿をしたお地蔵さまです。夫人の守護仏とされてきました。 「裸地蔵」とも呼ばれ、鎌倉の「裸形彫刻」として貴重なものとなっています。 (普段は法衣を纏われています。) 鎌倉の裸形彫刻としては、 鶴岡八幡宮 の木造弁財天坐像(国重文)や 青蓮寺 の木造弘法大師坐像(鎖大師:国重文)が知られています。 延命寺 の「裸地蔵」は、 運慶 作とも伝えられていますが、 運慶 の生きた時代と、 北条時頼 夫妻が双六をした時代とは、どうも合わないようです・・・。 延命寺 北条時頼 夫人が建てた寺と伝わっています。 https://www.yoritomo-japan.com/page043enmeiji.htm 延命寺 のお地蔵さまは、 鎌倉二十四地蔵 の一つに数えられています。 本尊の阿弥陀如来は、 圓應寺 の閻魔大王を彫ったあまりの木で造ったことから、「木あまりの像」と呼ばれています。 脇侍の観音さまは、 鎌倉三十三観音 の一つです。 鎌倉伝説集 https://www.yoritomo-japan.com/densetu.htm 鎌倉二十四地蔵 https://www.yoritomo-japan.com/jizo.htm 延命寺 https://www.yoritomo-japan.com/page043enmeiji.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

久成寺のツツジ

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鎌倉の植木にある 久成寺 のツツジです。 鎌倉のツツジ http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/kamakura-tutuji.htm 久成寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page140kujyoji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

玉縄城址の七曲坂~鎌倉の古道~

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龍寳寺 から植木子ども会館へ向かうと、中世の山城 「玉縄城」 への古道 「七曲坂」 があります。 いくつにも折れ曲がっていることから「七曲坂」と名付けられたといいます。 玉縄城 の大手口にあたり、自然の要害でした。 玉縄城 は、1512年(永正9年)、北条早雲によって築かれた山城です。 難攻不落を誇った 玉縄城 でしたが、1590年(天正18年)、徳川家康によって包囲され開城し、1619年(元和5年)に廃城となりました。 城廻に立派な「こいのぼり」が泳いでいました。 七曲坂 https://www.yoritomo-japan.com/kodou-nanamagari.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html