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六代御前の墓~盛者必衰の歴史:逗子~

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六代御前とは、壇ノ浦に沈んだ平維盛の子で、「六代」という名には、平正盛から数えて六代目の直系という意味があるといいます。 1183年(寿永2年)、源義仲に攻められた平氏(平家)及び一族は「都落ち」しますが、維盛は、妻子を都に残していったそうです。 この時点で、維盛は「平氏の時代は終わった」と思っていたのかもしれません。 あの平重盛の子ですから、先々まで読んで行動していたでしょう。 そして、1185年(文治元年)3月、平氏は壇ノ浦で滅亡します。 六代御前は、 源頼朝 の命によって平氏の残党を探索していた 北条時政 によって捕らえられてしまいました。 しかし、本来であれば、鎌倉に送られ斬首されるはずの六代御前は、 文覚 によってその命を救われます。 『平家物語』の伝えるところによれば、 文覚 が 頼朝 に助命嘆願し、「赦し文」を手に入れたとなっておりますが、 『吾妻鏡』によると、 文覚 の弟子によって、 「六代御前は文覚の弟子であるのに斬首しようとしている。 祖父の重盛はあなたの命を助けてくれた方でしょう。 重盛への恩と文覚との縁をもって、文覚に預けてもらいたい。」 という内容の事が伝えられたようです。 そして、 文覚 の申し分を無視するわけにもいかないので、「当分の間、文覚に預ける」とした旨の手紙が 北条時政 の所へ送られたようです。 いずれにしても、命を助けられた六条御前は、出家して「妙覚」となり、「三位禅師」と呼ばれるようになります(父維盛は「三位右近衛権中将」だった。)。 1194年(建久5年)、鎌倉を訪れた妙覚が 頼朝 に謁見したとも伝えられています。 しかし、1199年(建久10年)1月13日、妙覚を助けた 頼朝 がこの世を去ります。 それから、わずか1ヶ月後、最大の庇護者である 文覚 も「三左衛門事件」の際に捕らえられ佐渡国流罪となりました。 そして、妙覚も捕らえられ、田越川で処刑されたと伝えられています。いつ捕らえられ、いつ処刑されたのかは不明です。 庇護者の 文覚 は、佐渡国流罪後に許されますが、再び捕らえられ対馬国に流される途中に死んだというのが通説となっています(1205年(元久2年))。 参考: 怪僧文覚と源頼朝 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり

鎌倉の初詣

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初詣は、新年になって初めて神社や寺院に参拝し、一年の平和と安全を願うものです。 初詣が習慣的に行われるようになったのは明治に入ってからだといいます。 何か日本人が「最初にやるべき行事」として古代よりあったような感じもしますが・・・。 鶴岡八幡宮 毎年、初詣ランキングのベスト・テンに入っています。 2009年は251万人の初詣客で、 全国第5位でした。 ~鶴岡八幡宮の破魔矢~ 1063年(康平6年)、陸奥の安倍貞任の征伐から帰った 源頼義 は、鎌倉の由比郷鶴岡に 石清水八幡宮 を勧請します( 由比若宮(元八幡) )。 そして、 石清水八幡宮 から、戦の守護として拝領した破魔弓と破魔矢を神宝として納めたといいます。 鶴岡八幡宮 の破魔矢は、その開運の守りにちなんだものです。 鶴岡八幡宮の初詣と破魔矢 新年の鶴岡八幡宮: http://okadosblog.blogspot.com/2011/01/blog-post_03.html ~鎌倉宮の獅子頭~ 鎌倉宮 は、後醍醐天皇の皇子で、鎌倉で悲運の最期を遂げた護良親王を祀る神社です。 お守りの「獅子頭」は、護良親王が兜の中に獅子頭を入れて出陣したという故事から、「厄除け・幸運招来のお守り」として伝えられています。 鎌倉宮の初詣と獅子頭 新年の鎌倉宮: http://okadosblog.blogspot.com/2011/01/blog-post_9226.html ~江の島:江島神社~ (日本三大弁財天) 江の島 は、古くより島全体が信仰の霊地として崇められ、江戸時代には弁財天信仰で賑わいました。 江の島 の弁財天は、安芸の宮島、近江の竹生島とともに日本三大弁財天と称されています。 江の島の初詣 江島神社: http://www8.plala.or.jp/bosatsu/enosima-jinzya.htm 泰安殿(弁財天): http://www8.plala.or.jp/bosatsu/enosima-benzaiten.htm 初詣~江の島~: http://okadosblog.blogspot.com/2011/01/blog-post_01.html ~江の島:

「地蔵縁日」と「鎌倉の伝説の地蔵」

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「お地蔵さま」を「一番親しみのある仏さま」と思われる方は多いのではないでしょうか。 それは、子どものころから、野辺や路辺に「お地蔵さまのいる風景」を見てきたせいなのかもしれません。 「地蔵菩薩」は、釈迦の入滅後、弥勒菩薩が誕生するまでの間、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道に分身して、それぞれの道で苦しむ者を救ってくれる仏さまとして信仰されてきました。 また、賽の河原で苦しんでいる子どもを救ってくれることから、古くから子どもを守ってくれる仏さまとしても信仰されています。 毎月24日は、お地蔵さまの縁日です。 つい最近まで各所に地蔵講が残されていて、4のつく日には信者が集まって法会が行われていたといいますが、今はどうなのでしょう。 宝戒寺 では、7月の地蔵盆に 「地蔵まつり」 が行われています。 ~伝説の地蔵菩薩たち:鎌倉~ どこもく地蔵堂 (瑞泉寺) 瑞泉寺 の地蔵堂に安置されている地蔵像は、もとは扇ヶ谷の 智岸寺 (廃寺)にあったお地蔵さまだと伝えられ、 「どこも苦地蔵」 と呼ばれて親しまれています。 そのむかし・・・ 堂守が、どうにも生計が立たないので別の場所に移り住もうとすると、夢枕にお地蔵さまが現れて「どこも、どこも」と言ったそうです。 「どこに行っても苦しいのは同じ」ということをお地蔵さまは伝えたのだといいます。 貝吹地蔵 瑞泉寺 裏山の崖にある地蔵像です。 1333年(元弘3年)の 新田義貞 の鎌倉攻めの際に、一体の地蔵が現れ、自害した 北条高時 の首をもって逃げた家来を、この地に導いてくれたと伝えられています。 導地蔵堂 (極楽寺) 子どもたちを健康に育てるのに霊験あらたかなことから、 「導き地蔵」 と呼ばれ信仰を集めてきました。 このお地蔵さまの視野に入るところでは、子どもたちに災難が起きないといわれています。 月影地蔵堂 (極楽寺) 極楽寺 から少し奥に入った山裾に地蔵堂があります。 安置されている地蔵菩薩像( 月影地蔵 )は、月影ヶ谷の阿仏尼邸にあったものだと伝えられています。 息子の正当性を訴えるために鎌倉に来た阿仏尼と、この月影地蔵との間には、どのような関係があったのでしょうか・・・。

除夜の鐘と鎌倉の名鐘

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12月31日(大晦日)の夜から1月1日にかけて撞かれる鐘を「除夜の鐘」と呼びます。 108回の鐘が撞かれますが、そのうち107回までを旧年中に撞き、残りの1回を新年に撞くというのが一般的な作法のようです。 108 という数については・・・ 「煩悩の数」 とする説が多く語られているようですが、 かなり複雑な計算によって導き出されたものもあります。 (眼・耳・鼻・舌・身・意)の 6 に、(苦・楽・不苦不楽)の 3 を掛けます。 6×3 =  18 続きまして・・・ この18に(貧者と無貧者)の 2 を掛けます。 18×2= 36 さらにこの36に(過去・現在・未来)の 3 を掛けます。 すると・・・36×3= 108 そして、一年十二ヶ月・二十四気・七十二候の和であるという説もあります。 (12+24+72= 108 ) ~鎌倉を代表する梵鐘~ 円覚寺の梵鐘(洪鐘) 鎌倉最大の梵鐘。九代執権 北条貞時 が 江ノ島 に参籠して鋳造に成功させたという伝説の梵鐘で、「国宝」に指定されています。 この鐘を吊す鉄環は、名刀正宗で知られる 刀工正宗 の作と伝えられています。 建長寺の梵鐘 「関東一の美しさ」といわれる梵鐘で、「国宝」に指定されています。 五代執権 北条時頼 の寄進。撰文は開山の 蘭渓道隆 。 建長寺 創建当時の貴重な遺品です。 東慶寺の梵鐘 材木座の 補陀洛寺 から移された梵鐘です。分捕り品となって土中に埋められた鐘を、のちに農民が掘り出したものと伝えられています。 もともとの 東慶寺 の梵鐘は、伊豆韮山の 本立寺 にあります。 本覚寺の梵鐘 本覚寺 開山の日出が、木更津八幡宮別当との論争に勝利して得た梵鐘です。 「石渡造左衛門という者が担いで持って帰ってきた」という伝説が残されています。 この外、鎌倉最古の梵鐘といわれる 常楽寺 の梵鐘は、 鎌倉国宝館 に寄託されています。 長谷寺 の梵鐘も 常楽寺 ・ 建長寺 に次ぐ古鐘ですが、現在は 長谷寺 の宝物館に置かれています。 ~除夜の鐘がつける寺~ 大船観音寺 (23時から先着順に整理券配布) 浄智寺 (先着108名:23時から整理券配布) 長谷寺

長谷寺の歳の市

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12月18日は 長谷寺 の 「歳の市」 です。 鎌倉で 「歳の市」 が開かれるのは 長谷寺 だけとなりました。熊手・達磨・神棚という縁起物をはじめとした多くの露店が 長谷寺 の参道に並びます。 長谷寺観音堂 午前11時から御祈祷の法要が行われます。 12月18日は、観音さまと五色の紐で結ばれる特別な日です。 「お手綱」(おてづな)と呼ばれる紐に触れながら参拝すれば、 観音さまとより近い縁で結ばれるそうです。 たくさんのお線香です。 門前には露店が並びます。 熊手 達磨 神棚 川戸のおやじさん 熊手を売っているのは、川戸のおやじさん。 観音堂の前では、「福寿草市」が開かれています。 センリョウやマンリョウの市もやってます。 鎌倉「冬紅葉」。 カエデの紅葉がきれいです。 昔から縁起物の売り買いは交渉です。交渉が成立するとお祝いの「シメ」です。いろんなシメがあるのでしょうが・・・「ヨヨヨイ ヨヨヨイ ヨヨヨイ ヨイ」とかねぇ~・・・。いいですねぇ~。

御鎮座記念祭~鶴岡八幡宮の御神楽~

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鶴岡八幡宮 の 「御鎮座記念祭」~御神楽~ は、京都の 石清水八幡宮 の祭神を迎えるために執り行われた儀式を再現したもので、毎年12月16日に行われます。 鶴岡八幡宮 は、1063年(康平6年)8月、奥州を平定して鎌倉に帰った 源頼義 が、京都の石清水八幡宮を由比鶴岡に勧請したのがはじまりです(参考: 元八幡 )。 1180(治承4年)10月6日、鎌倉入りを果たした 源頼朝 は、10月12日には由比鶴岡の八幡宮を現在地に遷座します。 しかし、1191年(建久2年)3月4日、小町大路付近で発生した火災で、火の粉が五重塔に移り、社殿はことごとく焼失してしまいます(参考: 鶴岡八幡宮の五重塔 )。 頼朝 は直ちにその復興に着手し、現在の上下両宮の姿に再建しました。 そして、11月21日、あらためて石清水八幡宮を勧請しています。 鶴岡八幡宮 上宮(本宮) その遷宮の日である11月21日を、陰暦から陽暦に換算した12月16日に 〈御鎮座記念祭〉 は行われます。 1191年(建久2年)11月21日の遷宮の日、 頼朝 は京都より雅楽家の多好方(おおのよしかた)を招いて「遷宮の儀」を執り行っています。 『吾妻鏡』には、「好方、宮人曲を唱し、頗る神感の瑞相あり・・・」と記されています。 午後5時になると、宮司以下神職が大石段を上り、上宮で祭典が執り行われます。 祭典が終わると宮司らが大石段を下りて、 舞殿 北側に特設された祭場に着席します。 「御火台(みひひろく)を奉れ」 と唱えられると、篝火に火が点じられます。 火が燃え上がると、「宮人曲」が唱えられます。 そして、巫女4人による舞(宮人の舞)が奉納され、続いて、宮中武官衣装の神職による舞楽「人長の舞」が奉納されます。 ※「人長」(にんちょう)というのは、御神楽の舞人の長のことをいいます。 静寂の中、篝火が焚かれ、多好方が唱えたという「宮人曲」が復元され、舞が奉仕される様は、かなり感動的でした。 写真がよくないので、その素晴らしさが伝わりませんが・・・。 京より招かれた多好方は、 鶴岡八幡宮 の楽人らに「宮人曲」を伝授し、飛騨国荒木郷を与えられたそうです。 ※ 畠山重忠 と 梶原景季 は、 頼朝 の命によって、多好方から雅楽