本格的に動き始めた鎌倉の歴史
=平清盛の死と飢饉= 1181年(治承5年)、平清盛が高熱におかされて64歳で亡くなります。 清盛の死によって平氏の力は弱まりますが、西国を襲った大飢饉も平氏の勢力を削ぐことになります。 平清盛像 (六波羅蜜寺) (1180年(治承4年)の異常気象の影響によって、翌年に起こった大飢饉は、翌々年にも波及します。 頼朝 の挙兵(1180年)からの数年間が休戦状態となっていますが、この飢饉の影響が大きく、兵を動かすことなどできる状況にはありませんでした。) まだ、東国の地盤整備が済んでいなかった 頼朝 にとっては、これらの出来事はまことに好都合で、鎌倉から動かずに済み、急がねばならなかった東国の強化に全力を尽くすことができました。 当時の飢饉の様子(餓鬼草子) =にわかに激しくなる天下の情勢= ~志田義広の反抗~ 1183年(寿永2年)に入ると、安定していた情勢も動き始めました。 2月、 頼朝 の叔父にあたる志田義広が 頼朝 に反抗しますが、失敗に終わっています。 義広は常陸国で勢力をふるい、一時は、あなどりがたい勢力となっていました。 この叔父の反乱を鎌倉殿 頼朝 が鎮圧したことは、鎌倉の新政権の力を関東一帯に知らしめることになり、その勢力が強化されるきっかけとなったといいます。 ~木曽義仲との対立~ 頼朝 の従兄弟木曽義仲は、 頼朝 と相前後して挙兵し、1183年(寿永2年)には、信濃、上野、越後、越前をその勢力下に入れていました。 以前より、上野の支配については、 頼朝 の支配圏との関係で衝突があったのですが、1183年(寿永2年)、 頼朝 と義仲の関係は急激に悪化します。 頼朝 と義仲の対立の原因として・・・ ◎ 頼朝 に反抗した志田義広が木曽義仲のもとに逃げ込み、これを義仲が匿ったため。 ◎甲斐の武田信光が縁組みを断られた腹いせに「義仲が頼朝を討とうとしている」と密告したため。 ◎ 頼朝 が追放した源行家(頼朝の叔父)を義仲が匿ったため。 などがあげられています。 両者の対立は、あわや合戦というところまでになりますが、義仲が長男を 頼朝 のもとへ人質に出すことで和議が成立します。 この人質というのが、 頼朝 の娘大姫と結婚したという清