別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2023年6月3日土曜日

葛原ヶ岡で処刑された日野俊基


1324年(正中元年)、鎌倉幕府に反感を抱いていた後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、後醍醐天皇の側近日野資朝と日野俊基六波羅探題に捕らえられ、鎌倉へ送られています(正中の変)。

このときは、資朝が佐渡流罪、俊基は無罪放免となりました。

後醍醐天皇には何の処分もありませんでした。


しかし、後醍醐天皇はその後も倒幕を計画します。

1330年(元徳2年)頃になると、寺社の武力を味方に付けるため、東大寺興福寺比叡山などに参詣しています。

しかし、1331年(元弘元年)、またもや計画が幕府に漏れ、円観・文観・忠円が六波羅探題に捕らえられ、鎌倉へ送られました(元弘の変)。

拷問にかけられた文観は、後醍醐天皇の命により、幕府調伏の祈祷を行っていたことを白状し、忠円も比叡山を味方に付けようとしていたことなどを白状したといいます。

文観は硫黄島、忠円は越後、円観は陸奥へ流罪となりました。


翌1332年(元弘2年)には、正中の変で佐渡流罪となっていた日野資朝が処刑され、元弘の変で再び捕えられて鎌倉に送られてきた日野俊基が葛原ヶ岡で処刑されています。

後醍醐天皇は隠岐流罪となりました。


日野俊基の墓


『太平記』には、日野俊基の家臣後藤左衛門尉助光が、俊基夫人の手紙を届けたことが記されています。

後藤左衛門尉助光は、俊基の妻の手紙を持って鎌倉に来ましたが、幕府の警戒が厳しくなかなか渡せずにいました。

処刑の日、俊基の乗り物が仮粧坂にさしかかったとき、役人に懇願してやっと渡すことができたのだといいます。

『太平記』は処刑の様子を次のように記しています。

「俊基畳紙を取出し、頸の廻りを押拭い、其紙を推開いて、辞世の頌を書き給う。古来一句、無死無生、万里雲尽、長江水清と筆を差置きて、鬢の髪をなで給う程こそあれ、太刀影後に光れば、首は前に落ちけるを、自ら抱て伏給う」


葛原岡神社

1887年(明治20年)、明治天皇によって創建された神社です。

祭神は日野俊基


日野俊基終焉の地


「秋をまたで葛原岡に消ゆる身の露のうらみや世に残るらん」

日野俊基の辞世の歌です。

葛原岡神社では、俊基の命日にあたる6月3日に例祭が行われます。





葛原岡神社例大祭


葛原岡神社








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