別冊『鎌倉手帳』

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2017年8月20日日曜日

養和の飢饉と源頼朝

1180年(治承4年)は、畿内を中心に北陸、西国では旱魃による農産物被害が甚大でした。

鴨長明は『方丈記』に、春・夏は日照りで、秋は大風と洪水で五穀がことごとく実らず、2年間、食べ物がない状況で、仁和寺の僧が数がわからないほどの死者の額に「阿」の字を書いて供養していたと記しています。

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1180年(治承4年)8月17日に挙兵した源頼朝は、8月24日、石橋山で大敗したものの、安房に渡って軍勢を整え、10月6日(7日)には鎌倉に入り、10月20日には富士川の戦いで平氏軍を敗走させます。

敗れた頼朝が1ヶ月ちょっとの短期間で再起できたのは、各国の目代を滅ぼし平氏への連絡網を遮断したことが大きな理由ともいわれていますが、もう一つに西国の食糧難があったのではないでしょうか。

富士川の戦いで頼朝は敗走した平氏軍を追って一気に上洛してしまおうと考えたようですが、上総広常、千葉常胤、三浦義澄らに関東の統一が先と主張されて諦めたと『吾妻鏡』には記録されています。

しかし、すでに畿内・西国の食料不足は頼朝も知っていたでしょうし、攻め入ろうにも兵糧の調達ができないことは分かっていたはずです。

平氏軍の敗走にしても、兵糧不足で兵士の士気が上がらなかったのだという説もあります。

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その後は反平氏の行動が拡大。

平氏軍は12月に平清房が延暦寺の堂舎を焼き、平重衡が東大寺興福寺を焼亡させ、翌年4月には墨俣の戦いで勝利しますが、それ以後は戦線を維持するのが精一杯で疲弊していったようです。

1183年(寿永2年)、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破った木曽義仲が入京しますが、平氏が敗れた要因には飢饉による兵糧不足もあったのでしょう。

そして、食糧難の都では、大量の兵が入ってきたことで、略奪行為が横行したそうです。

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その間、頼朝は東国の整備に専念していたようです。

1180年(治承4年)10月の富士川の戦いの翌月には、常陸の佐竹秀義を攻め、さらに、足利氏と新田氏を帰属させて、関東を支配下に入れました。

12月には御所が完成。

頼朝は鎌倉の主に推戴されています。

翌1181年(養和元年)には仮宮だった鶴岡八幡宮に新たな社が造営されました。

そして1183年(寿永2年)10月14日、木曽義仲の横行に困った後白河法皇は「東海・東山両道の国衙領・荘園の年貢は国司・本所のもとに進上せよ。従わぬ場合は頼朝に連絡して命令を実行させよ」 という内容の宣旨を交付しました(寿永二年十月宣旨)。

この宣旨によって、東国における頼朝の支配権が承認されました(これより前の10月9日には、従五位下の位に復帰しています。)。

翌11月には、寿永二年十月宣旨に基づく年貢納入を理由に源義経を近江国に派遣し、木曽義仲の動向を探らせています。

おそらく、この頃には飢饉の影響もだいぶ少なくなってきたのかと思われます。


 歴史めぐり源頼朝


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