別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2021年7月15日木曜日

流人頼朝に仕えた伊東祐清




伊東祐清は、伊豆に流された源頼朝の監視役伊東祐親の次男。

頼朝の乳母だった比企尼の三女を妻としていました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~頼朝を助けた祐清~

『曽我物語』によると・・・

伊豆国流罪となった頼朝は、祐親が大番役で上洛している間に、祐親の三女・八重姫と結ばれます。

やがて男児が誕生して千鶴丸と名付けられました。

しかし、大番役から戻った祐親は激怒し、千鶴丸を殺害。

八重姫は、頼朝から引き離され、江間小四郎(小次郎)という者に嫁がされてしまいます。

さらに、祐親は、頼朝も討とうとしますが、祐清が頼朝に身の危険を知らせたことで、頼朝は北条時政邸に逃れることができたのだといいます。

祐清は、北条時政を烏帽子親としていました。


『吾妻鏡』によると・・・

祐親が頼朝を殺害しようとしたのは、1175年(安元元年)9月頃のこと。

祐清から知らせを受けた頼朝は、熱海の走湯権現に逃げ込んだのだといいます。


八重姫


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~平家方についた祐清~

1180年(治承4年)8月、頼朝が北条時政らの援助を受けて源氏再興の挙兵を果たします。

しかし、祐清は父祐親とともに平家方に付きました。

頼朝は、石橋山の戦いで大敗を喫しますが、真鶴から安房へ渡って再起。

10月には鎌倉入りを果たし、富士川の戦いに臨みます。

『吾妻鏡』によると・・・

10月19日、祐親と祐清が天野遠景に捕えられ、三浦義澄に預けられました。

伊豆にいた頃に祐清に助けられた頼朝は、祐清を呼び出して恩賞を与えようとしますが・・・

祐清は、「父が捕えられているのに褒美などいただけない」として釈放を求めます。

その後、祐清は上洛したのだと伝えられています。


石橋山の戦い

源頼朝鎌倉入り

富士川の戦い


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~祐親が自害・祐清は死刑~

『吾妻鏡』によると・・・

1182年(養和2年)2月14日、北条政子の懐妊による恩赦で三浦義澄に預けられていた祐親が助命されることになりますが・・・

祐親は、これまでの所業を恥じて三浦邸で自害したのだといいます。

翌日、堀親家から祐親自害の報告を受けた頼朝は、祐清を呼んで、かつて自分を助けてくれたことへの褒美を与えようとしますが、祐清は死を望み、死刑となったのだといいます。

ただ、『吾妻鏡』には、これとは矛盾する記録もあります。

富士川の戦い後、平家に味方するために上洛した祐清は、北陸道合戦で討死したというものです(建久4年6月1日条)。

どちらが正しい事なのかは不明です。


(伊東市)


(伊東家の菩提寺)


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~河津祐泰の子と祐清の妻~

祐清の兄は河津祐泰

祐泰は、1176年(安元2年)、領地問題のもつれから工藤祐経に殺害されました。

1193年(建久4年)の富士裾野の巻狩りの際に仇討ちを決行した曽我兄弟は祐泰の子。

曽我兄弟は、工藤祐経を討ち取りますが、兄の十郎祐成は仁田忠常に討ち取られ、弟五郎時致は捕えられて梟首されました。

『吾妻鏡』によると、曽我兄弟は弟がいました。

河津祐泰の死後五日目に生まれましたが、祐清の妻が引き取って育てられます。

祐清の死後、祐清の妻は大内義信に再嫁して祐泰の子とともに暮らしたのだといいます。

祐泰の子は僧となって律師と名乗っていたようです。

1193年(建久4年)6月1日、工藤祐経の妻子が律師の処分を訴えてきます。

その時は曽我兄弟に同意した証拠がないので許されました。

しかし、7月2日、鎌倉に呼び出された律師は、死刑になると勘違いし、甘縄辺りで念仏を唱えて自殺してしまったのだと伝えられています。


河津祐泰の血塚
(伊東市)



伊東祐親

源頼朝挙兵

歴史めぐり源頼朝







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伊豆・箱根

源頼朝配流の地・北条氏発祥の地

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