別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2021年2月27日土曜日

清水寺と清閑寺の領地争い


『吾妻鏡』によると・・・


1213年(建暦3年)7月25日、清水寺の僧が一堂を建立しました。

しかし、そこは清閑寺の領地。

清閑寺の僧が訴えを起こすと、清閑寺を末寺としている比叡山の衆徒も騒ぎ出します。

すると、清水寺を末寺としている興福寺の衆徒も騒ぎ出し、8月3日、清水寺に砦を築きます。

比叡山の衆徒は長楽寺に結集しました。

朝廷は、検非違使の平有範・大内惟信・後藤基清を清水寺に派遣。

清水寺の砦を壊し、武器を捨て法衣を着て仏前にいるよう説得すると、寺僧たちはこれを承知しました。

続いて、院の職員を長楽寺に派遣。

同様に説得しますが、所司の法師が応対しただけで、従う様子はありません。

衆徒に面会して天皇のお言葉を伝えようとしますが、悪僧が出てきて、

「命など惜しくはない、天皇の言葉など聞くに及ばず」

などの暴言を吐く始末。

院の職員は早々に退去しますが、門や扉には石礫が飛んできました。

報告を受けた後鳥羽上皇は、北面の武士と在京の御家人・近臣の家人に命じて長楽寺を囲み、一人残らず逮捕するよう宣旨を下しました。

攻められた衆徒は武装を解いたのだといいます。

8月6日、比叡山の衆徒は山を下り、根本中堂常行三昧堂の扉が封鎖され、常明灯が消され、日吉大社の御簾や神鏡を切って落として閉門させ、神官たちは追放されたのだとか。







その後、土地は清水寺の所領とされました。

その代わりに、清水寺の前執行・法橋快玄が還俗させられて佐渡国に配流されたのだそうです。






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