兄源頼朝と対立し、1185年(文治元年)11月3日、都落ちした源義経。
大物浦で難破した後、行方をくらまし、長い逃亡生活を送っていました。
比叡山延暦寺や興福寺などにも匿われていた時期があったようです。
そして、青年期を過ごした奥州平泉へと向かいます。
義経が奥州平泉へ下ったのは1187年(文治3年)の春ごろと考えられているようです。
『吾妻鏡』の文治3年2月10日条によれば、伊勢国(三重県)から美濃国(岐阜県)を通って奥州へ辿り着いたようです。
正妻の郷御前と子も一緒で、山伏や稚児に変装しての旅だったそうです。
しかし・・・
義経が奥州平泉へと下った年の10月29日、北方の王者と呼ばれた藤原秀衡が亡くなります。
秀衡は、長男・国衡と次男・泰衡に対し「義経を主君として仕え、ともに団結して頼朝の攻撃に備えよ」 と遺言したといいますが・・・。
鎌倉の頼朝は、跡を継いだ泰衡に圧力を加え続けます。
そして、義経が奥州平泉に逃れてから約2年後の1189年(文治5年)閏4月30日、頼朝の圧力に屈した泰衡は義経の衣川館を襲撃。
義経は持仏堂に入って、郷御前と4歳の娘を殺してから自刃したのだと伝えられています(享年31)。
高館義経堂は、1683年(天和3年)、仙台藩主・伊達綱村によって衣川館跡に建てられました。
内部には義経の木像が安置されています。
(中尊寺)
(金鶏山)
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