別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2018年2月10日土曜日

奥州へ下った源義経


源頼朝と対立し、1185年(文治元年)11月3日、都落ちした源義経

大物浦で難破した後、行方をくらまし、長い逃亡生活を送っていました。

比叡山延暦寺興福寺などにも匿われていた時期があったようです。

そして、青年期を過ごした奥州平泉へと向かいます。

義経奥州平泉へ下ったのは1187年(文治3年)の春ごろと考えられているようです。

『吾妻鏡』の文治3年2月10日条によれば、伊勢国(三重県)から美濃国(岐阜県)を通って奥州へ辿り着いたようです。

正妻の郷御前と子も一緒で、山伏や稚児に変装しての旅だったそうです。


平泉


しかし・・・

義経奥州平泉へと下った年の10月29日、北方の王者と呼ばれた藤原秀衡が亡くなります。

秀衡は、長男・国衡と次男・泰衡に対し「義経を主君として仕え、ともに団結して頼朝の攻撃に備えよ」 と遺言したといいますが・・・。

鎌倉の頼朝は、跡を継いだ泰衡に圧力を加え続けます。

そして、義経が奥州平泉に逃れてから約2年後の1189年(文治5年)閏4月30日、頼朝の圧力に屈した泰衡は義経の衣川館を襲撃。

義経は持仏堂に入って、郷御前と4歳の娘を殺してから自刃したのだと伝えられています(享年31)。


高館義経堂

高館義経堂は、1683年(天和3年)、仙台藩主・伊達綱村によって衣川館跡に建てられました。

内部には義経の木像が安置されています。



(中尊寺)

(金鶏山)






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