別冊『鎌倉手帳』




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2011年11月15日火曜日

護良親王(大塔宮)の失脚

護良親王は、後醍醐天皇の皇子。

比叡山延暦寺に入り大塔宮とも呼ばれています。

1331年(元弘元年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕のための元弘の乱を起こすと、護良親王は還俗して倒幕運動に参戦します。

その後、足利高氏(尊氏)、新田義貞の参戦もあって、1333年(元弘3年)5月22日、鎌倉幕府は滅亡します(参考:鎌倉幕府の滅亡)。


 後醍醐天皇


『太平記』によると・・・

護良親王は、幕府滅亡後も大和信貴山の毘沙門堂にあって、兵を集めていたといいます。

後醍醐天皇は、

「天下も静まったのだから兵を集めるのはやめ、すみやかに出家剃髪して叡山座主として行に専念するように・・・」

と勅使を送っています。

これに対し護良親王は、

足利高氏は、わづかに一戦の功をもって万民の上に立ち権勢を得ようとしています。

まだ勢力の小さいなうちに討たなければ、北条高時よりも強大な敵になりかねません・・・」

と答えたといいます。

その後、護良親王は征夷大将軍に任ぜられ入京していますが、後醍醐天皇は高氏の討伐は理由がないとして退けています。


 足利尊氏


そして、高氏は、鎌倉幕府討滅の勲功第一として、鎮守府将軍に任ぜられ、30ヶ所の所領を与えられました。

しかも、後醍醐天皇の諱「尊治」の一字をもらい「尊氏」と改名しています。

一方、六波羅潰滅に尽力した赤松一族は、少ない恩賞に終わっています。これは赤松一族が護良親王に近い存在だったからともいわれています。

これより以前、後醍醐天皇が隠岐にいる頃、護良親王は後醍醐天皇の代理と称して、従う武士たちに所領安堵などを行っていたようですが、後醍醐天皇が京に戻ると護良親王の措置を一切無視したということです。

すでに後醍醐天皇と護良親王との間には深刻な対立があったということなのでしょう。


 護良親王


さて、『太平記』によると・・・

征夷大将軍となった護良親王は、尊氏討伐の名目で兵を召し抱え、その数を増やしていきます。

そして、集められた兵は、夜な夜な京白河あたりをうろついて辻斬りをしていたといいます。


では、何故、護良親王尊氏を憎んだのでしょう?

六波羅探題尊氏や赤松円心らによって落とされた後、護良親王に仕える殿法印良忠という男の配下が、土蔵破りをして財宝を盗み出すという事件があったそうです。

尊氏は、20余人を召し捕って六条河原で斬罪に処し、

「大塔宮の配下、殿法印良忠の手の者ども、所々で白昼強盗を働くので誅殺した」

という高札を立てたといいます。

このような事もあったので、護良親王は尊氏追討を考えるようになったのだとか・・・

そのうち、護良親王は、諸国へ令旨を使わし兵を集めるようになります。

これを聞いた尊氏は、護良親王の継母阿野廉子を通じて後醍醐天皇へ、

「大塔宮は、帝位を奪うため諸国の兵を募っています。その証拠は明らかです」

と奏聞し、護良親王の令旨を差し出しています。

激怒した後醍醐天皇は、

「大塔宮を流罪に処すべし」

として、清涼殿での集まりに事よせて護良親王を呼び寄せます。

そうとは知らずに参内した護良親王は、結城親光と名和長年によって捕らえられ、馬場殿に押しこめられました。

護良親王は後醍醐天皇に弁明の手紙を書いたといいますが、取り次いだ公卿が関わり合いになるのを恐れ奏聞しなかったそうです。


 土牢

1334年(建武元年)11月15日、護良親王は鎌倉に流され、尊氏の弟直義に身柄を預けられました。

直義は、二階堂の土牢に護良親王を押しこめ、南の方以外の付き添いは許されなかったそうです。

(※南の方は、藤原保藤の娘で護良親王の妃の一人。)

鎌倉宮には、護良親王が幽閉されていたという土牢が残されています。

ただ、実際に幽閉されたのは、このような岩窟ではなく、土蔵造りの牢屋だったともいわれています。


南の方の墓
(妙法寺)

妙法寺は、護良親王の子日叡によって開かれました。

日叡の母は南の方です。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

後醍醐天皇の措置に人々は、

「護良親王の武功によって天皇に返り咲くことが出来たのに、多少の過失によって流罪としたのは、再び朝廷が力を失って武家が栄える前兆だろう」

と噂したそうです。


護良親王の失脚には阿野廉子が大きく拘わっているようです。

廉子は、後醍醐天皇が隠岐に流されたときも付き従い、京に戻ると絶大な権力を握るようになっていたといいます。

そして、廉子は数人の皇子を生んでいますので、その皇子を皇位につけるためには、護良親王が邪魔だったのでしょう。

※「阿野」という姓で思い出されるのは、源頼朝の異母弟阿野全成ですが、廉子は全成の子孫ともいわれています。


 護良親王の墓


土牢に幽閉された護良親王は、約9ヶ月間にわたって幽閉生活を送ります。

そして、1335年(建武2年)7月、北条高時の遺児時行が反乱を起こし、鎌倉を守っていた足利直義軍を破ります。

時行が護良親王を奉じることを恐れた直義は、7月23日、淵辺義博に命じて護良親王を殺害しました。

二階堂の理智光寺跡には、護良親王の墓があります。

捨てられていた首を理智光寺の住職が葬ったのだと伝えられています。


 護良親王の墓
(妙法寺)

 鎌倉宮

明治天皇が護良親王を祀るために創建した神社。


 大塔宮の碑
(比叡山延暦寺)

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