別冊『鎌倉手帳』

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2011年10月29日土曜日

北方の王者藤原秀衡の死

1187年(文治3年)10月29日、北方の王者藤原秀衡が亡くなりました。

秀衡は、奥州藤原氏の三代当主(参考:奥州平泉の発展と藤原清衡)。



~源義経の庇護と源頼朝への対抗~


奥州藤原秀衡といえば・・・

源頼朝に追われ、逃亡を続けていた源義経を庇護したことで知られています。


義経が、いつ、どのような経路で奥州に下ったのかは定かではありませんが、1187年(文治3年)の春ごろ、雪解けを待って北陸路から奥州へ下ったものと考えられています。


一方、鎌倉の頼朝が、「義経が秀衡に匿われている」と確信したのは、その年の秋になってからのことのようです。

『吾妻鏡』の9月4日条によれば、、頼朝が朝廷に「秀衡が関東に反逆しようとしていること」の申し入れをし、秀衡に対して「院庁下文」が出されたことが記されています。

頼朝は院庁からの使いと一緒に鎌倉からも雑役を派遣しています。

秀衡の回答は、「背くつもりはない」との内容のようでしたが、雑役の報告では「反逆の準備を進めている」というものだったといいます。


~北方王者の最期~


1187年(文治3年)10月、秀衡は病魔におかされます。


臨終にのぞんだ秀衡は、長男国衡と次男泰衡に対して、

「源義経を主君として仕え、ともに団結して頼朝の攻撃に備えよ」

と遺言します。


後継者は次男の泰衡(正室の子)とし、長男国衡(側室の子)には、秀衡の正室を娶らせ、互いに異心をもたない旨の起請文を書かせました。

義経にも起請文を書かせたといいます。


そして、10月29日、王国の行く末を心配しながら平泉の館で息をひきとりました。

遺体は中尊寺金色堂須弥壇の下に納められ、現在でもミイラとして残されています。


もしかすると秀衡には・・・

自分の死によって、栄華をほこった北方王国の瓦解が予測できていたのかもしれません。



~奥州藤原氏の滅亡~


頼朝にとって秀衡の死は、奥州藤原氏を滅ぼす絶好の機会となりました。

義経逮捕を口実に奥州を攻める時期が到来したわけです。

頼朝は跡を継いだ泰衡を再三にわたって誘惑します。これに屈した泰衡は、ついに義経の館を襲撃し、義経を自害に追い込んでしまいます。

義経の首を鎌倉に送った泰衡でしたが・・・

頼朝の目的は、義経の首ではなく、奥州の制圧です。

1189年(文治5年)、頼朝は奥州征伐を行い、泰衡を滅ぼしました(参考:奥州征伐・・・奥州藤原氏の滅亡)。


鎌倉手帳
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