鎌倉には、関東支配のための鎌倉府が置かれ、尊氏の嫡男足利義詮(室町幕府二代将軍)がその任に就いていました。
1349年(貞和5・正平4年)、義詮が京に上り、代わって弟の足利基氏が鎌倉の主として赴任します。そして「鎌倉公方」として関東を治めることとなります。
鎌倉公方の御所は、足利氏にとってゆかりのある浄明寺にありました(参考:鎌倉公方屋敷跡)。
鎌倉公方は、基氏→氏満→満兼と続き、四代目に持氏が就任しています。
四代鎌倉公方の足利持氏は、京都の将軍家と対立し、ついに1438年(永享10年)、将軍足利義教に対して反乱を起こします。
永享の乱と呼ばれています。
戦いに敗れた持氏は、二階堂の永安寺に閉じこめられ、1439年(永享11年)、自害したと伝えられています。
この時、持氏の嫡子義久も報国寺で自害しました。
大町の別願寺には、持氏のものと伝わる宝塔があります。
~血書願文~
持氏は、1434年(永享6年)、鶴岡八幡宮に血を混ぜて書いた願文を奉納しています。
将軍義教を退けるための願文といわれ、鶴岡八幡宮宝物殿で拝観することができます。
持氏の供養塔の四方には鳥居が浮彫されています。
これは、持氏の怒りを静めるためだと伝えられています。
~永享の乱後の鎌倉~
永享の乱によって、長らく鎌倉公方は途絶えていましたが、1447年(文安4年)、幕府は持氏の遺児成氏が鎌倉公方となることを認めます。
しかし、鎌倉公方と上杉家との対立が深まり、1454年(享徳3年)、成氏が上杉憲忠を暗殺したことで合戦となります(享徳の乱)。
1455年(康生元年)、成氏は上杉を援護した今川範忠に攻められ古河に敗走しました。
こうして、源頼朝以来、長い間「武家の府」として栄えた鎌倉も、成氏が古河に移ったことで政治の中心から離れることになります。
そして、小田原北条氏が台頭してくると、鎌倉に残っていた商工業者も小田原に移り、鎌倉はもとの農漁村となりました。
瑞泉寺総門辺りに持氏が自刃した永安寺があったのだといいます。