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六日の菖蒲~源義経の屋島の戦い~

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源義経像 「六日の菖蒲」とは、時機に遅れて役に立たないことのたとえ。 菖蒲は5月5日の 端午の節句 に用いるもので、5月6日では間に合わない・・・。 『平家物語』には、 屋島の戦い に遅れて到着した 梶原景時 が 源義経 に「六日の菖蒲」と嘲笑されたことが語られています。 『吾妻鏡』によると、1185年(元暦2年)2月18日、暴風の中を五艘の船(150騎)で摂津国を出航した 義経 は、通常では3日かかるところを翌朝には阿波国に上陸。 19日には 屋島 に拠る平家軍を攻めて敗走させ、21日には志度寺に籠る残党を服従させました。 一方、 景時 らの百四十余艘は、22日になって 屋島 に到着したのだとか。 平安時代の 端午節会 では、軒に菖蒲や蓬を挿し、菖蒲を冠に飾ったり、菖蒲の葉で作った「薬玉」(くすだま)を柱に下げたりしていたようです。 端午節会は 清少納言 の『枕草子』や 紫式部 の 『源氏物語』 にも描かれています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

紫式部が姉君と呼んだ人

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大河ドラマ「光る君へ」で、まひろ(紫式部)が越前へと下るのもこうすぐかと思いますが・・・ その頃、 紫式部 は姉を亡くしています。 幼い頃に母を亡くしていた紫式部にとって姉の死は大きな影響を与えたようです。 『紫式部集』には「筑紫へ行く人のむすめ」( 筑紫の君 )が登場します。 紫式部 が姉を亡くした頃、筑紫の君は妹を亡くし、二人は互いに姉妹の代わりに思いあう約束をして手紙を書きあったのだとか。 紫式部は筑紫の君を「姉君」と呼び、筑紫の君は紫式部を「中の君」と呼んでいたようです。 やがて、筑紫の君は、父の任官に伴い筑紫の肥前国へ旅立つことに。 そして、 紫式部 は越前守になった父 藤原為時 に同行して越前へと旅立ちます。 二人は離れても手紙のやり取りを重ねていたようですが、再会することはありませんでした。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

『白氏文集』~源氏物語や枕草子に影響を与えた詩文集~

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『白氏文集』(はくしもんじゅう)は、中国唐の文学者・白居易の詩文集。 承和年間(834-848)以降に日本に伝来し、平安貴族の間で流行しました。 藤原行成 はそれを書写して 一条天皇 に献上。 紫式部 の 『源氏物語』 や 清少納言 の『枕草子』などにも影響を与えました。 中宮彰子に新楽府を進講する紫式部 紫式部 が中宮・ 彰子 に講義した「新楽府」は、『白氏文集』の中の諷諭詩。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

安倍晴明は平将門の子?

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平将門は、自らを新皇と称して反乱を起こし、940年(天慶3年)2月14日、藤原秀郷と平貞盛によって鎮圧された豪族。 将門塚 藤原秀郷と平貞盛に討たれた平将門の首級は、4月25日に京都へ送られて梟首。 その首は京都で晒されるが、夜空へ舞い上がり、故郷へ向けて飛び去っていったのだとか。 その首が落ちた場所とされるのが、東京都千代田区大手町にある 将門塚 。 将門が討たれた後、子の将国は常陸国信太郡(茨城県稲敷市)に落ち延びたのだといいます。 信太・・・ 信太という地は大阪にもあります。 安倍晴明 は和泉国の信太の森に棲んでいた 白狐・葛の葉 が生んだ子という伝説が残されています。 しかし・・・ 「晴明は将門の子・将国で、常陸国で生まれ、都に上って 花山天皇 の信頼を得た」という伝説もあるらしい。 参考までに・・・ 源頼朝 の挙兵に参じた 千葉常胤 や 上総広常 は、房総平氏・平忠常の子孫。 忠常の母は将門の娘。 北条時政 の先祖といわれる平直方は、将門を討った平貞盛の子孫。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

GW建長寺~金澤翔子展~

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ゴールデンウィーク期間中の5月3日から6日まで、 建長寺 では 「金澤翔子展」 が開催されます。 場所:得月楼 時間:10:00~16:00 (6日は15:00まで) 入場無料 上の画像は、金澤翔子先生が二十歳のときに書いたという「般若心経」。 📎金澤翔子HP ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

奈良の長谷寺と鎌倉の長谷寺~徳道の観音様~

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奈良の長谷寺 も 鎌倉の長谷寺 も十一面観音が本尊。 創建当初の十一面観音は、徳道がクスノキの霊木で造立させたものだったのだと伝えられています。 奈良の長谷寺 奈良の長谷寺 は、 東大寺 開山の 良弁 の弟子だったという徳道が聖武天皇の勅命により開いたと伝えられる寺。 平安中期には初瀬詣(長谷寺詣)が盛んになり 藤原道長 が参詣。 道長の時代に活躍した女流文学者の 菅原道綱母 ・ 清少納言 ・ 紫式部 ・ 赤染衛門 ・ 菅原孝標女 も参詣しました。 鎌倉の長谷寺 鎌倉の長谷寺 も徳道が開いたと伝えられている寺。 奈良の長谷寺 の草創と十一面観音造立の由来を描いた 『長谷寺縁起絵巻』 が伝えられています。 伝説によると、徳道は近江国で見つけたクスノキの倒木から二体の十一面観音像を造らせました。 一体は 奈良の長谷寺 に安置され、もう一体は行基が海に流したのだといいます。 流された観音像は、牡蠣殻に導かれて鎌倉に辿り着いたのだとか。 参考までに、 紫式部 ゆかりの京都 大雲寺 の本尊は行基作と伝わる十一面観音ですが、 奈良の長谷寺 や 鎌倉の長谷寺 の十一面観音像と同じ霊木で造立されたのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆