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越前和紙で作られた紫式部の越前下向行列~紫ゆかりの館~

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「紫ゆかりの館」 は、 紫式部 が青春時代を過ごした越前武生に2021年オープンした資料館。 館内には、 紫式部 の 越前下向 行列の模型が置かれています。 模型の人形・馬・調度などは越前和紙で作られています。 紫ゆかりの館 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

唐崎社紅葉橋遙拝所~斎王の禊の社・下鴨神社~

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紅葉橋遥拝所 唐崎社 は、賀茂斎王が退下した際、解齋(お祓い)のために参拝していた社。 現在は 井上社 に合祀されています。 賀茂斎王は、賀茂神社( 上賀茂神社 ・ 下鴨神社 )に巫女として奉仕した未婚の内親王または女王(親王の娘)。 斎王が奉仕していた時代の 賀茂祭 (葵祭)は、斎王が主宰していたのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 上賀茂神社 下鴨神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

開山750年の鎌倉:光則寺

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光則寺 は、五代執権 北条時頼 の家臣宿谷光則の自邸跡。 宿谷光則の墓 1260年(文応元年)、 日蓮 は、長谷にあった宿谷光則の屋敷を訪れて、政治や宗教のあるべき姿を著した 『立正安国論』 を 北条時頼 に渡してくれるよう光則に依頼します。 『立正安国論』 は光則によって 時頼 に提出されますが、 日蓮 の献策は受け入れられませんでした。 その後、多くの弾圧を受けながらも、世の中の正道を説き続けた 日蓮 は、1271年(文永8年)9月12日に逮捕され佐渡流罪となります。 その時、弟子の日朗も捕らえられ、光則がその監視の任に当たることになりました。 日朗の土牢 捕らえられた日朗は、 光則寺 裏山に残されている土牢に幽閉されたのだと伝えられています。 土牢御書の碑 土牢の前には、 日蓮 が、幽閉されている日朗に書いた手紙の碑が建てられています。 佐渡流罪となった 日蓮 は、弟子の日朗の身を案じて手紙を書いたといいます。 その手紙が『土牢御書』と呼ばれているものです。 『土牢御書』には、牢を出たら佐渡に遊びに来るように書かれています。 日朗は、 日蓮 の佐渡流罪中、8度にわたって佐渡を訪れたといいます。 1274年(文永11年)2月14日、執権 北条時宗 は日蓮の赦免を決定します。 赦免状を携えて佐渡に渡ったのも日朗でした。 日蓮 が赦免された年、日朗の監視役をしていた宿谷光則が自邸を提供し寺としています。 それが現在の 光則寺 です。 開山は日朗。 光則は、弟子の身を案ずる 日蓮 に感動して帰依したのだと伝わっています。 4月21日、 長谷寺 をメイン会場とする 「かまくら長谷の市」 が開催されます。 光則寺 門前は朝市の会場となります。 GW の頃には ヤマアジサイ が咲き始めると思います。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆