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賀茂斎院歴代斎王神霊社~葵祭・下鴨神社~

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賀茂斎院歴代斎王神霊社 下鴨神社 の 賀茂斎院歴代斎王神霊社 は、2018年(平成30年)、式年遷宮事業の一環として再興されました。 斎王は、賀茂神社( 上賀茂神社 ・ 下鴨神社 )に巫女として奉仕した未婚の内親王または女王(親王の娘)のこと。 斎王は、 上賀茂神社 と 下鴨神社 の祭礼・ 賀茂祭 (葵祭)を主宰していました。 下鴨神社 上賀茂神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

東大寺の大仏造立と石山寺の如意輪観音

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東大寺の大仏 743年(天平15年)、聖武天皇は「大仏造顕の詔」を発しますが・・・ 東大寺 の 大仏 造立にあたっては表面に金を施すため大量の黄金が必要でした。 聖武天皇は、 良弁 に金の山と信じられていた大和国 吉野 の 金峯山 で金の産出を祈願するよう命じます。 すると・・・ 良弁 の夢に蔵王権現が現われてこう告げます。 「 金峯山 の黄金は、弥勒菩薩が出現したときに地を覆うために使うので、大仏のためには使えない。 近江国の湖水の南に観音菩薩が現れる場所がある。 そこへ行って祈るがよい」と。 石山寺 夢のお告げのとおりに石山の地を訪れた良弁は、巨大な岩の上に聖武天皇から預かった聖徳太子の念持仏( 金銅如意輪観音像 )を祀って祈願すると・・・ 程なく、陸奥国で黄金が産出されて祈願達成。 しかし、観音像を移動させようとしても岩の上から離れない。 そのため、観音像を覆うように堂を建てたのが 石山寺 の始まりなのだといいます。 石山寺本堂 石山寺 の 本堂 は、 珪灰石 の岩盤上に建てられています。 珪灰石 珪灰石 (けいかいせき)は国の天然記念物。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉で舞った静御前

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静先ず歌を吟じ出して云はく 吉野山峯ノ白雪フミ分テ、入ニシ人ノ跡ゾコヒシキ 次に別物の曲を歌う之後、又和歌を吟じて云はく、 シヅヤシヅ~ノヲダマキクリカヘシ昔ヲ今ニナスヨシモガナ 誠に是社壇之壯觀、梁の塵殆んど動く可し 上下皆興感を催す 京の白拍子だった 静御前 。 源義経 に気に入られ妾となりました。 源頼朝 と不仲となった義経が都を落ちるときも行動を共にしていました。 義経一行は九州へ渡るため摂津国の 大物浦 から船出しますが難破。 わずかな郎党と静を連れて 吉野山 に身を隠しますが・・・ 義経と静は 吉野山 で別れます。 その後、 蔵王堂 に辿り着いたところを捕らえられ、1186年(文治2年)3月1日、母の磯禅師とともに鎌倉へ送られてきました。 安達新三郎清経邸が宿舎とされたといいます。 そして、 頼朝 から 鶴岡八幡宮 で舞うように命じられたのは4月8日の灌仏会のときでした。 静の舞 吉野山 峰の白雪 ふみわけて入りにし人の 跡ぞ恋しき しづやしづ しづのをだまき くり返し昔を今に なすよしもがな 神殿の梁に積もった塵をも動かすほどの見事な舞だったそうです。 見ている人は上下の別無く感動をしました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

藤原為時が一条天皇に奏上した漢詩~越前守となった為時~

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996年(長徳2年)正月の除目で淡路守となった 藤原為時 。 しかし、為時は越前守を望んでいたため 一条天皇 に申文を奏上します。 その中にあったのが 「苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼」 という漢詩。 「懸命に勉強したのに希望が叶わず、血の涙が襟をぬらしております。 もし、除目の変更があれば、蒼天( 一条天皇 )に更なる忠勤を誓うでしょう」 この漢詩によって 為時 は越前守に変更されたのだとか。 紫式部公園 996年(長徳2年)、 紫式部 は越前守となった父 藤原為時 に同行して越前国へ。 紫式部公園 は、 紫式部 の越前下向を記念して整備された公園。 紫式部像 紫式部公園 には、金色の紫式部像が建てられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆