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打毬~光る君へで藤原道長が活躍する馬術競技~

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「光る君へ」第7話では、 藤原道長 が 打毬 (だきゅう)で活躍するようですが、 打毬 は、平安時代に端午の節会の際に行われた馬術競技。 その起源はヨーロッパに伝えられた馬術競技の「ポロ」とを同じといわれています。 打毬 は唐で盛んに行われていたもので、日本には弘仁年間に渤海国を通じて伝えられたとする説が有力となっています。 気比の松原 越前国には、渤海の使節団(渤海使)を迎えるため施設「松原客館」がありました。 松原客館は、敦賀の 気比の松原 付近にあったといわれています。 928年(延長6年)に渤海は滅亡しますが、松原客館は渤海滅亡後も、宋の商人や官人の迎賓・宿泊施設として使用されていたようです。 東鴻臚館址 平安京の 鴻臚館 は、渤海使のために建てられた迎賓施設。 松原客館に滞在していた渤海使は、都からの使者に伴われ、深坂峠を越えて 塩津浜 から舟で琵琶湖を渡り、 大津 から 鴻臚館 に入りました。 822年(弘仁13年)に渤海国の国使が 豊楽殿 で 打毬 を行ったという記録が残されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

香炉峰の雪は簾を撥げて看る~清少納言と白楽天~

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雪がとても高く降り積もった日、中宮・ 藤原定子 は 清少納言 に 「香炉峰(こうろほう)の雪はどうでしょうか?」 と尋ねます。 清少納言 は、女房に御格子をあげさせ、みずから御簾を高く上げると、 定子 は満足気に笑ったのだとか。 「香炉峰雪簾撥看」 これは白楽天(白居易)の詩の一説。 「香炉峰の雪景色を、寝室でくつろぎながら、すだれを高くはね上げて見る」 香炉峰は、中国江西省九江県西南にある廬山の北峰。 清少納言 は白楽天の詩を 定子 に演出して見せたのでした。 (『枕草子』~雪のいと高う降りたるを~) 📎清少納言の歌~雪の山を作ったときに詠んだ歌~ 次回の光る君へ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

泉涌寺の大涅槃図特別公開と清少納言・源頼朝・北条政子・北条泰時・蘭渓道隆・願行…

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「仏涅槃図」は、仏教の開祖・釈迦が沙羅双樹の下で、頭を北にして、西を向き、右脇を下にした姿と、十大弟子をはじめとするさまざまな生き物が嘆き悲しむ様が描かれた図。 泉涌寺の大涅槃図 清少納言 が隠棲したという東山月輪に建てられた 泉涌寺 の大涅槃図の大きさは、縦16m、横8mで日本最大級の巨幅。 2024年3月8日(金)から3月17日(日)の間、 仏殿 に掲げられた大涅槃図が特別公開されます。 境内には 清少納言の歌碑 もあります。 泉涌寺 泉涌寺 は皇室の菩提寺。 源頼朝 の要請を受けた宇都宮信房が月輪大師に寺地を寄進したことで伽藍が完成したのだといいます。 後鳥羽上皇 ・順徳上皇をはじめ、 北条政子 ・ 北条泰時 も月輪大師について受戒しています。 鎌倉に 建長寺 を開いた 蘭渓道隆 は第三世月翁智鏡との出会いが縁で来日しました。 第六世願行は、 東寺 を再興し、 高野山 の復興に尽力。 鎌倉に泉涌寺派の法燈を伝えた僧でもあり、 長楽寺 ( 安養院 )・ 大楽寺 ・ 理智光寺 を開き、伊勢原の 大山寺 を再建しました。 覚園寺 開山の智海心慧は、願行から密を受けたといわれ、 浄光明寺 の愛染明王像、 玉泉寺 の胎内不動は願行作と伝えられています。 今熊野観音寺 清少納言 の父・ 清原元輔 の邸宅は、 泉涌寺 の塔頭・ 今熊野観音寺 付近にあったといわれています。 今熊野観音寺 の北には、 清少納言 が仕えた 藤原定子 の陵墓( 鳥戸野陵 )があります。 即成院 泉涌寺 の塔頭・ 即成院 には 屋島の戦い で活躍した 那須与一 の石造宝塔があります。 鎌倉の涅槃会は2月15日 次回の光る君へ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて!