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源融を祀る塩竃神社~新京極:錦天満宮~

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塩竃神社 は、新京極にある 錦天満宮 の境内社。 紫式部 の 『源氏物語』 の主人公・ 光源氏 のモデルの一人とされる源融を祀ります。 源融は、邸宅の 河原院 に陸奥国の 塩竈 の風景を模した庭園を造営し、尼崎から海水を運んで塩焼き(製塩)を楽しんだのだと伝えられています。 錦天満宮 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

頭痛もちだった花山天皇、治したのは安倍晴明

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『古事談』によると・・・ 花山天皇 は頭痛に悩んでいたようです。 特に雨の日はひどかったらしい・・・ それを救ったのが陰陽師・ 安倍晴明 。 晴明は花山天皇にこう申し上げます。 「帝の前世は徳のある行者。 大峯山で亡くなりましたが、前世の徳により天皇として生まれ変わりました。 ただ、前世の髑髏が岩の間に落ちて挟まっています。 そのため雨の日に岩がふくらんで圧迫しているのです。 大峯の髑髏を取り出して広い所に置けば治癒するでしょう」 花山天皇 は、 晴明 が指定した場所に使者を出し、髑髏を岩間から取り出させます。 以後、花山天皇は頭痛に悩むことはなくなったのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 元慶寺 花山天皇 が即位したのは984年(永観2年)。 しかし、翌年、寵愛していた女御の 藤原忯子 が死去すると、悲しみのあまりに出家を考えはじめます。 花山天皇に信任されていた 藤原義懐 と権勢を争っていた 藤原兼家 は、この機に、次女の 詮子 が生んだ懐仁親王を皇位につけるため動き始めます。 兼家は、蔵人として花山天皇に仕えていた三男・ 道兼 に出家を勧めさせます。 そして、986年( 寛和2年)6月23日、道兼に連れられて内裏を抜け出した 花山天皇 は 元慶寺 で出家しました( 寛和の変 )。 在位期間は僅か2年でした。 花山院菩提寺 花山院菩提寺 は、 花山法皇 が隠棲した地。 花山法皇 が西国観音霊場三十三ヶ所の中興の祖とされることから、霊場ゆかりの地として番外寺院となっています。 西国三十三所の御詠歌は、花山法皇が巡礼の際に木の短冊にしたためた和歌なのだとか。 菩提寺の御詠歌「有馬富士ふもとの霧は海に似て 波かときけば小野の松風」も 花山法皇 が詠んだ歌。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

まひろが使っている机と和歌~光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館~

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1月29日から開催されている 「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」 には、まひろ( 紫式部 )が使っている机が展示されています。 「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」 「光る君へ」で 紫式部 が読んでいたこの歌は、紫式部の曾祖父・藤原兼輔が詠んだ歌。 醍醐天皇の更衣となった娘の桑子を案じて詠んだものとされています。 光源氏 の母・ 桐壺更衣 は、桑子をモデルにしているともいわれています。 蘆山寺 紫式部 の邸宅は、 蘆山寺 の地にあったと考えられています。 幼い頃に母( 藤原為信女 )を亡くした紫式部は、この地で父 藤原為時 に育てられ、 藤原宣孝 との婚姻生活を送り、一人娘・ 賢子 (大弐三位)を育てます。 そして、 『源氏物語』 を書いたのもここでした。 「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」 は2025年1月31日(金)まで開催。 石山寺 石山寺 は、聖武天皇の勅願によって 東大寺 の 良弁 が開いた観音霊場。 紫式部 が 『源氏物語』 を書き始めた寺として知られています。 藤原道綱母 の『蜻蛉日記』・ 赤染衛門 の『赤染衛門集』・ 和泉式部 は『和泉式部日記』・ 菅原孝標女 の『更級日記』にも登場。 そして、 清少納言 は『枕草子』に「寺は石山寺・仏は如意輪観音」と綴りました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆