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紫式部が生まれた紫野~今宮神社~

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今宮神社 は、 一条天皇 の時代に疫病退散のために船岡山で行われた「紫野御霊会」 に始まる社。 紫式部 が20歳前後の頃の正暦年間(990-995)、都では疫病が大流行。 一条天皇 も疱瘡に罹患したといわれています。 疫病の流行は長徳年間(995-999)、長保年間(999-1004)まで続き、 紫式部 の夫 藤原宣孝 も疫病で亡くなったようです。 「消えぬまの 身をも知る知る 朝顔の 露とあらそふ 世を嘆くかな」 この歌は、 紫式部 が疱瘡になってしまった女性を励ますために詠んだと言われています。 疫社 「紫野御霊会」では、京中の人々が船岡山に登って綾傘に装飾を施して唄い踊ったのだといいます。 4月に行われる「やすらい祭」は、疫病の根源を花傘に集めて 疫社 に封じ込める祭で、紫野御霊会で人々が踊ったことに始まるのだと言われています。   今宮神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

安倍晴明が登場する清浄華院の『泣不動縁起』

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清浄華院 は、 比叡山 の円仁が開創し、 法然 が浄土宗に改宗したと伝えられ、 紫式部 の邸跡とされる 蘆山寺 の北にある寺院。 重要文化財の『泣不動縁起』は、 「 三井寺 の智興という僧が病気となり、 安倍晴明 の占いによって、弟子の証空が身代わりとなるが・・・ 証空が信仰していた不動明王が救ってくれた」 という物語。 📎安倍晴明の占いと師弟を救った三井寺の泣不動 清浄華院 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

一条戻橋~安倍晴明が式神を隠しておいた橋~

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この橋の名は 一条戻橋 。 伝説によると・・・ 三善清行の八男・浄蔵貴所は、熊野での修行の帰りにこの橋で父の葬列に出会います。 浄蔵が祈ると清行が蘇生。 以来、この橋は「死者が蘇る橋」(あの世から戻る橋)=「 戻り橋 」と呼ばれるようになったのだといいます。 陰陽師・ 安倍晴明 の父保名も晴明の呪法によって蘇生したのだとか。 式神 式神は、 安倍晴明 が術を施して自在に操ったのだという十二体の人形。 用のない時には式神を 戻橋 に置いた石櫃に閉じ込めておいたのだととか。 紫式部 の 『源氏物語』 ~葵の巻~で、主人公の 光源氏 の正室・ 葵の上 と愛人・ 六条御息所 が 賀茂祭 で車争いを繰り広げたのは、 一条戻橋 付近らしい。 一条戻橋 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

紫式部の父と母

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紫式部 の父 藤原為時 は、菅原文時(菅原道真の孫)に師事し、 大学寮 では紀伝道を専攻。 和歌・漢学・漢詩に秀でた当代有数の文章生(文人)でした。 ただ六位以下の下級官人。 五位までが貴族と呼ばれる階級で、その格差は大きいものがありました。 そのため、 紫式部 も不安定な暮らしの中で育ったようです。 為時 が貴族となるのは996年(長徳2年)に越前守となったとき。 為時の最終位階は正五位。 紫式部 の母は藤原為信の娘。 名が不明のため、 藤原為信女 と呼ばれています。 紫式部が幼い頃に亡くなってしまったようですが、 父・為信の兄弟・為雅の妻の姉妹には『蜻蛉日記』の作者・ 藤原道綱母 や『更級日記』の作者・ 菅原孝標女 の母がいたり、兄弟の理能の妻は『枕草子』の作者・ 清少納言 の姉妹だったようです。 紫式部 は下級官人の家に生まれましたが、父方の家筋も母方の家筋も文才に溢れる者が多かった・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆