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源氏物語 恋するもののあはれ展~大津:石山寺~

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大津市は 『源氏物語』 誕生の地。 紫式部 が 『源氏物語』 を書き始めたという 石山寺 では、2024年1月29日(月)から「源氏物語 恋するもののあはれ展」が開催されます。 「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」も同時開催。 石山寺 石山寺 は、聖武天皇の勅願によって 東大寺 の 良弁 が開いた観音霊場。 平安時代には 藤原道長 をはじめとする貴族による石山詣が盛んに行われ、 紫式部 ・ 清少納言 ・ 和泉式部 ・ 藤原道綱の母 ・ 赤染衛門 ・ 菅原孝標の娘 などの女流文学者も参詣しました。 日本最古といわれる国宝の 多宝塔 は、 源頼朝 の寄進と伝えられています。 紫式部像 紫式部 は、998年(長徳4年)頃、 藤原宣孝 と結婚しますが、わずか3年後の1001(長保3年)4月25日、宣孝は疫病のため卒去。 その現実を忘れるために物語を書き始めたのだといいます。 それが評判となり、 一条天皇 の中宮・ 藤原彰子 ( 藤原道長 の娘)に仕えるようになります。 そして、宮仕えをしながら完成させたのが 『源氏物語』 。 源氏の間 「源氏の間」 は 石山寺 の 本堂 の相の間にある部屋。 1004年(寛弘元年)8月15日、 石山寺 に参籠中だった 紫式部 は、中秋の名月が琵琶湖に映る美しい景色を見て、この部屋で 『源氏物語』 を書き始めたのだといいます。 『源氏物語』 の冒頭は「桐壺」の巻ですが・・・ この日、紫式部は 「須磨」・「明石」の巻 の一節を書きとどめたのだとか・・・ 在原行平( 光源氏 のモデルの一人)が蟄居を余儀なくされた須磨での日々を重ねあわせながら、 「須磨」「明石」 の両巻から書き始めたのだといいます。 紫式部の供養塔 宝篋印塔の笠を3つ重ねた 層塔 (三重宝篋印塔)は、紫式部の供養塔と伝えられ、様式から鎌倉時代のものと推定されるもので、国の重要美術品に認定されています。  ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2024吾妻山菜の花ウオッチング~二宮町~

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吾妻山公園の菜の花 は、例年、12月下旬から咲き始め、1月上旬には見ごろを迎えます。 毎年恒例のイベント「菜の花ウオッチング」は1月13日から2月18日に開催される予定。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

厭離穢土欣求浄土~神の君から光る君へ~

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「厭離穢土欣求浄土」は、穢れた世界を厭い離れ、清浄な仏の国土に生まれることを願い求める思想。 この語を貴族や庶民にまでも普及させたのが恵心僧都源信の『往生要集』。 「厭離穢土欣求浄土」の思想を浄土信仰の基本とした源信は、穢土を地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道とし、浄土には10種の楽のあることして、浄土での十楽を願い、穢土を厭い離れることを勧めた。 大樹寺 桶狭間の戦い 後、窮地に立った 徳川家康 は、 大樹寺 の登誉天室に「厭離穢土欣求浄土」の思想を諭され生き抜く決意をした。 恵心堂 比叡山 の 横川 にある 恵心堂 は、恵心僧都源信が修行をした所。 来年の大河ドラマは 紫式部 が主人公の「光る君へ」。 『往生要集』を著した恵心僧都源信は、 『源氏物語』 の 「宇治十帖」 に登場する横川の僧都のモデルといわれる。 浮御堂 琵琶湖に浮かぶ 浮御堂 は恵心僧都源信の創建。 恵心院 宇治の 恵心院 は恵心僧都源信が再興した寺。 紫式部 は、 『源氏物語』 という架空の物語を書いたことで、五戒の一つ「不妄語戒」の罪(嘘をついてはいけない)で地獄に落とされたという噂があったらしい・・・ 恵心僧都の教えをどのように思っていたのだろう・・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

慈眼堂の徳川家康と紫式部の供養塔~神の君から光る君へ~

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東照大権現供養塔  (徳川家康) 徳川家康 に仕えた天海の廟所・ 慈眼堂 には、徳川家康の供養塔と紫式部の供養塔が建てられています。 2024年(令和6年)の大河ドラマは 紫式部 。 紫式部の塔 紫式部塔の両側には、同時代に活躍した 清少納言 と 和泉式部 の供養塔も。 比叡山慈眼堂 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆