投稿

松原客館と藤原為時と紫式部~気比の松原~

イメージ
気比の松原 松原客館は、平安時代前期に、渤海の使節団(渤海使)を迎えるため越前国敦賀に建てられた迎賓・宿泊施設。 気比の松原 付近にあったといわれています。 928年(延長6年)に渤海は滅亡しますが、松原客館は渤海滅亡後も、宋の商人や官人の迎賓・宿泊施設として使用されていたようです。 紫式部 の父・ 藤原為時 は、その交渉相手として越前国司に選ばれたといわれています。 東鴻臚館址 平安京の 鴻臚館 は、渤海使のために建てられた迎賓施設。 松原客館に滞在していた渤海使は、都からの使者に伴われ、深坂峠を越えて 塩津浜 から舟で琵琶湖を渡り、 大津 から 鴻臚館 に入りました。 822年(弘仁13年)に渤海国の国使が 豊楽殿 で 打毬 を行ったという記録が残されています。 『源氏物語』 ~桐壺巻~には・・・ 桐壺帝 が幼い 光源氏 を鴻臚館に滞在していた高麗人に人相占いさせている様子が描かれている。 気比の松原 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

気比神宮~紫式部が下向した越前国の一之宮~

イメージ
気比神宮 は、702年(大宝2年)創建と伝えられる北陸道の総鎮守。 越前国の一宮。 地元では「けいさん」の愛称で親しまれる古社。 紫式部 の父・ 藤原為時 が交渉相手となっていたという宋の商人や官人の迎賓・宿泊施設・松原客館は気比神宮が管理していたそうです。 大鳥居 1945年(昭和20年)の空襲で主要社殿が焼失してしまいますが、 大鳥居 は被害を免れ、 春日大社 (奈良県)・厳島神社(広島県)と並ぶ日本三大木造大鳥居の一つに数えられています(重要文化財)。 気比神宮 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

紫式部の歌~塩津浜~

イメージ
996年(長徳2年)、越前へ下向するため塩津山(深坂峠)を越えて行く 紫式部 。 そのときに詠んだのが・・・ 「知りぬらむ 行き来にならす 塩津山 世にふる道は からきものとは」 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

紫式部が旅の安全を祈願した塩津神社

イメージ
塩津神社 は、琵琶湖の北岸の 塩津浜 に鎮座する社。 創建年は不明だが、『延喜式神名帳』に所載されている「鹽津神社」と推定されている古社。 996年(長徳2年)、父・ 藤原為時 に同行して 越前国武生 へ出向く 紫式部 が参拝して旅の安全を祈願したのだという。 塩津神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆