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嵯峨に葬られた安倍晴明

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1005年(寛弘2年)9月26日に85歳で没した 安倍晴明 。 嵯峨に葬られたのだと伝えられている。 安倍晴明の墓 晴明墓 は、 晴明神社 の飛び地境内で、晴明の命日には嵯峨墓所祭が斎行されている。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

斎宮邸~伊勢神宮に奉仕した斎王の居所~

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斎宮邸は、伊勢神宮に奉仕した斎王の居所。 斎王は、未婚の内親王または女王のことで、賀茂神社の斎王と区別するため斎宮とも呼ばれます。 西京高校グランドの邸宅発掘調査では、「斎宮」「斎雑所」と書かれた土器などが発見され、斎宮邸の一つと判明しています。 紫式部 の 『源氏物語』 ~賢木の巻~では、光源氏と深い関係にあった六条御息所の娘が伊勢神宮に仕える斎王となっています。 源氏物語ゆかりの地説明板 (西京高校前) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

藤原道綱母・源頼光の一条邸

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『蜻蛉日記』の作者・ 藤原道綱母 の屋敷( 一条邸 )は、 一条戻橋 の東にあったのだという。 子の 道綱 もここで育った。 のちに 源頼光 に譲られたが、頼光の娘を娶った道綱は頼光の所有となってからも居住していたのだのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

高陽院~藤原頼通の邸宅・後鳥羽上皇の院御所~

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高陽院 は、 藤原頼通 の邸宅。 四町(250m四方)にも及ぶ寝殿造りの大邸宅だったのだといいます。 四町というと 紫式部 の 『源氏物語』 に登場する 光源氏 の邸宅・ 六条院 も四町占める大邸宅でした・・・ 鎌倉時代には 後鳥羽上皇 の院御所となり、 承久の乱 の際には、ここに兵が集められ  北条義時 追討の 院宣 が発せられたのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

摂関家の別邸に建てられた法勝寺

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法勝寺 は、摂関家の別邸・白河殿に建てられた寺院。 白河殿は、 藤原道長 ・その子 頼通 も所有し、 一条天皇 の中宮・ 藤原彰子 が出家後の住まいとしました。 その後、白河殿を譲り受けた白河天皇は 法勝寺 を創建。 1204年(元久元年)、 源実朝 が坊門信清の息女・ 坊門姫 を正室とする際、 後鳥羽上皇 は坊門姫の出発の様子を法勝寺西大路鳥居の桟敷から見物していました。 法勝寺 には、高さ約80メートルといわれる八角九重塔が聳えていました。 1208年(承元2年)に焼失してしまいますが、 栄西 が大勧進となって再建されました。 後醍醐天皇 の皇子・ 護良親王 は、梶井門跡(現在の 三千院 )に入室し、 比叡山延暦寺 の貫主(天台座主)となって大塔宮と敬称されますが、 大塔とは「法勝寺の九重塔のこと」という説があります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

光源氏と紫の上~みやこめっせの源氏物語石像~

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右大臣の娘・朧月夜との密会が露見してしまい、須磨へ退くこととなった光源氏。 都に残す紫の上と和歌を交わします。 「身はかくてさすらへぬとも君があたり去らぬ鏡のかけは離れじ」 ( 光源氏 ) 「わかれても影だにとまるものならば鏡を見ても慰めてまし」 ( 紫の上 ) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆