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北条一族の供養~徳崇大権現会:鎌倉宝戒寺~

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5月22日は、鎌倉幕府が滅亡した日。 徳崇大権現会 後醍醐天皇 が北条一族を弔うため 足利尊氏 に命じて建てさせた 宝戒寺 では、北条一族を供養するための 「徳崇大権現会」 が行われます。 普段は 徳崇権現堂 に安置されている北条高時像が 本堂 へ移され、「大般若経転読会」が行われます。 徳崇大権現堂 北条高時像 宝戒寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

長篠城主となった奥平貞昌~長篠の戦い~

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奥平貞昌(信昌)は、奥三河の南設楽郡作手の有力国人・奥平貞能の長男。 奥平氏は、はじめ今川氏に属し、 桶狭間の戦い 後、 徳川家康 の傘下に入りますが・・・ 奥三河で武田の勢力が強まると、1571年(元亀2年)、 武田信玄 に降伏。 貞昌は、妻の於ふう・弟の仙千代丸・奥平勝次の次男の虎之介を人質として武田氏に差し出しました。 しかし、1573年(元亀4年)4月12日、 武田信玄 が死去。 6月、 徳川家康 は奥平父子を味方に引き入れるため、長女の亀姫を貞昌の正室とすることなどの条件を提示。 貞昌は、武田の人質となっている妻おふうと離縁して家康の家臣となります。 そのため、人質に出されていた於ふう(16歳)・仙千代丸(13歳)・虎之助(16歳)は、9月21日、武田勝頼の命により山県昌景が処刑。 三人の首は 鳳来寺 山麗に晒されたのだといいます。 長篠城址 1575年(天正3年)2月、奥平貞昌は長篠城主となります。 この年の5月、 長篠城 は武田勝頼に包囲されますが、貞昌の家臣・鳥居強右衛門の活躍もあって武田軍の攻撃を凌ぎきったのだといいます( 長篠の戦い )。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

瀬田橋に風林火山の旗を立てよ!~武田信玄の遺言~

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瀬田橋 (瀬田の唐橋)は、滋賀県大津市の瀬田川に架かる橋。 神功皇后(200年代)の時代にはあった橋のようで、京都の 宇治橋 、山崎橋と並ぶ日本三古橋の一つ。 現在の橋は、1979年(昭和54年)に架け替えられたもの。 かつては、「瀬田橋を制するものは全国を制す」と言われ、京都防衛上の重要な橋でした。 1184年(寿永3年)1月20日、 源頼朝 が 木曽義仲 を追討する際には、 源範頼 が瀬田から、 源義経 が宇治から京へ入り、義仲を粟津で滅ぼしています。 1221年(承久3年)の 承久の乱 では、6月14日、 北条時房 率いる幕府軍が瀬田橋で朝廷軍を敗走させて、京市中に進軍しました。 そして、 武田信玄 は・・・ 1572年(元亀3年)10月、上洛するため甲府の 躑躅ヶ崎館 を出陣した信玄。 12月には 三方ヶ原の戦い で 徳川家康 を破り、翌年、三河に侵攻。 しかし、病に倒れ、4月に入って甲府へ撤退。 その途中の信濃国伊那谷で死去(53歳)。 死に際して・・・ 自身の死を3年間は秘匿すること。 遺骸を諏訪湖に沈めること。 勝頼は信勝継承までの後見を務め、越後の上杉謙信を頼ること。 山県昌景は瀬田に 風林火山 の旗を立てよ。 などと言い残したのだと伝えられています。

鎌倉アジサイ情報:大巧寺のイワガラミ2023/05/17

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大巧寺の イワガラミ の開花が始まったようです。 八重ドクダミも咲いています。 大巧寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~アジサイの名所~

北鎌倉:明月院のアジサイ開花情報2023/05/17

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明月院の例年の見ごろは、6月の第2週目頃から。 丸窓 丸窓の向こうにある本堂後庭園は、ユニセフ募金(300円)に協力すると入れます。 ただ、ハナショウブが見ごろになると500円になると思います。 例年、門前の川にイワタバコが咲き始めると、アジサイも本格的に色づき始めます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~アジサイの名所~