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源実朝の首を波多野の地に葬った武常晴

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『吾妻鏡』によると・・・ 1219年(建保7年)正月27日、甥の 公暁 に暗殺された 源実朝 は、 勝長寿院 に葬られました。 ただ、首は 公暁 が持ち去って行方がわからなかったため、首の代わりに髪の毛が葬られたのだそうです。 なぜ髪の毛があったのか・・・ 実朝 は拝賀式に出掛ける前に 「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」 と詠み、御髪上げに奉仕した宮内公氏に髪の毛を形見として与えていたのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 伝承によると・・・ 公暁 が持ち去った 実朝 の首は、長尾定景とともに公暁追討を命じられた武常晴が拾い上げ、波多野の地に葬ったのだといいます。 武常晴は、三浦一族で武の地を領した武義国の子。 父の義国は1213年(建暦)の 和田合戦 で棟梁の 三浦義村 には従わず、 和田義盛 に加勢するため、たった一騎で出陣して討死した武将として知られています。 実朝 の首を手に入れた常晴は、 三浦義村 と仲の悪かった 波多野忠綱 を頼って波多野の地に埋葬したのだと伝えられています。 源実朝首塚 (秦野市) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

公暁を討った長尾定景

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『吾妻鏡』によると・・・ 1219年(建保7年)正月27日、 源実朝 を暗殺した 公暁 は、山越えをして 三浦義村 の屋敷へ向かいますが・・・ 義村は長尾定景に公暁を討つよう命じます。 公暁を討った定景は、その首を 北条義時 の屋敷に運んだのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 長尾定景は鎌倉郡長尾庄(現在の横浜市戸塚区)を本拠とした武将。 1180年(治承4年)、伊豆で 源頼朝 が 挙兵 すると、定景は 大庭景親 につき、 石橋山の戦い では 岡崎義実 の子 佐奈田与一義忠 を討ち取る活躍をしています。 しかし、頼朝が鎌倉に入ると形勢は逆転し、大庭景親とともに捕らえられてしまいます。 景親は処刑されますが・・・ 定景は 三浦義澄 に預けられた後、 岡崎義実 に引き渡されました・・・ ただ・・・ 義実は、毎日法華経を唱えている定景をみて、息子を殺した罪を許したのだそうです。 翌年、義実の計らいで助命された定景は、三浦の家臣として仕えることになったのだとか。 長尾定景一族の墓 (久成寺) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

鎌倉:源氏山公園の紅葉・黄葉2022/11/27

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源氏山公園の紅葉・黄葉は見ごろ。 早くから色づいていた木は散り始めましたが、第二弾が色づきました。 葛原岡神社のイチョウは色づき始めたところ。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆