源実朝が受けた夢告→泉親衡の謀反→和田義盛挙兵!
泉親衡館跡 (横浜市泉区) 『吾妻鏡』によると・・・ 1210年(承元4年)11月21日明け方、駿河国の建穂寺の鎮守馬鳴大明神から酉年に戦があるというお告げがあったそうです。 同日、 源実朝 も夢の中でお告げを聞いたのだとか・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ その酉の年(1213年(建暦3年))。 和田義盛 は、正月4日の垸飯(おうばん)を務めました。 垸飯は、将軍を饗応する行事で、主従の関係を再確認する重要な儀式でした。 この年の垸飯は、1日が 大江広元 、2日が 北条義時 、3日が 北条時房 が務めました。 実朝 が義盛を、大江広元や北条氏に次いで重用していたことがわかります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 翌2月、事件が起こります。 2月15日、千葉成胤が阿静房安念という法師を捕えて 北条義時 のところへ連行します。 安念は謀反に賛成する仲間を勧誘していたのだとか。 2月16日、安念の白状によって、謀反を企てたとする者が捕えられます。 捕えられた者の中には、 和田義盛 の子和田義直と和田義重、甥の和田胤長が含まれていました。 謀反を画策したのは信濃国の御家人泉親衡。 親衡は、二代将軍 源頼家 の遺児千寿丸を将軍に据えて義時を討とうと企んでいたようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2月18日、囚人の一人薗田成朝が敬音という僧の宿舎へ逃亡。 敬音は、成朝に出家を勧めますが、国司に任ぜられたいという希望が叶わぬうちは出家はしないと語って行方知れずに。 2月20日、逃亡した薗田成朝について、敬音から話を聞いた 実朝 は、恩赦することにしたのだとか・・・ 2月25日、囚人の一人渋河兼守は、26日の明け方、安達景盛に処刑されることに決定されますが、悲しみに絶えない兼守は、 荏柄天神社 に十首の和歌を奉納することにしました。 2月26日、前夜から 荏柄天神社 に籠っていた工藤祐高が、渋河兼守の奉納した十首の和歌を御所に持ち帰ります。 その和歌をみた 実朝 は、その出来に感激して罪を許したのだとか・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 3月2日、泉親衡が 筋替橋 の辺に隠れているとの噂があったため、工藤十郎を派遣しますが、親衡は工藤らを殺害して逃亡、その後行は行方不明に。 ☆ ☆