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結城朝光は頼朝と寒川尼の子?~伊豆の頼朝の御落胤伝説~

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小山政光・寒川尼像 (小山市) 結城朝光 は、 源頼朝 の乳母を務めた 寒川尼 (寒河尼)が産んだ子。 頼朝から「朝」の字を与えられるほどに可愛がられました・・・。 そこで生まれるのが御落胤説。 一説によると・・・ 頼朝が 伊豆国 の 蛭ヶ小島 に流されていたときに 寒川尼 が懐妊(尼の娘とも)。 平家から追討されてしまうことを案じた頼朝は小山で出産させ、 小山政光 の四男として育てさせたのだとか。 信憑性はありませんが、結城氏は伝統的に源氏を称し、代々の当主は「朝」を通字(とおりじ)として用いています。 参考までに、徳川家康の次男結城秀康は、結城氏17代目の結城晴朝の養子となって結城を名乗ったようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

自分の命を縮めて夫の命を救った女性~仁田忠常の妻:三嶋大社~

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『吾妻鏡』によると・・・ 1187年(文治3年)正月18日、 仁田忠常 は瀕死の重病に陥ります。 源頼朝 も見舞いに訪れました。 このとき、忠常の妻は、 「妻の命を縮め、忠常を救い給え・・・」 と 三嶋大社 に祈願したのだといいます。 それから半年後の7月18日、 忠常の妻は、 三嶋大社 を参詣します。 しかし、洪水となり、江尻の渡しの船に乗りますが、その船が転覆してしまいました。 乗船客は皆水中に放り出されますが、奇跡的に助かります。 ただ、忠常の妻だけが水底に沈んだままとなってしまいました。 正月に忠常が重病に陥ったときの願いが神に受け入れられたのだとか・・・ 三嶋大社 三嶋大社 は、流人だった源頼朝が源氏再興を祈願した社。 忠常の妻も幼い頃から信仰し、毎月必ず参拝していたのだと言います。 仁田忠常の墓 仁田忠常 は伊豆国仁田郷の武将。 1180年(治承4年)の 源頼朝 の挙兵に参陣。 頼朝の信任は厚く、側近として従い、 源平合戦 や 奥州征伐 で武功をあげています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

安達盛長の子景盛

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安達景盛は、 源頼朝 が流人だった頃から側近として仕えていた 安達盛長 の嫡男。 母は 比企尼 の長女丹後内侍。 頼朝の亡き後の1199年(正治元年)、頼朝の跡を継いだ 頼家 に妾を奪われ、命も狙われたが 北条政子 に助けられた。 以後、北条氏と親密な関係を保ち、1203年(建仁3年)の 比企能員の変 では、比企氏と縁戚であったにもかかわらず連座を免れている。 比企滅亡後、 修禅寺 に幽閉された 頼家 は、母の 政子 と三代将軍となった弟の 実朝 に景盛の身柄を引き渡し処罰させてほしいと訴えたようだが、許されることはなかった。 1218年(建保6年)、秋田城介に任官。 以後、安達氏が秋田城介を世襲する。 1219年(建保7年)、 実朝 が暗殺された後に出家して高野山に入るが、その後も幕政に加わり、1221年(承久3年)の 承久の乱 では 政子 の言葉を代読した。 承久の乱後、 北条泰時 とともに栂尾 高山寺 の明恵に帰依している。 北条氏と姻戚関係を結ぶなど安達氏の繁栄に努め、五代執権 北条時頼 の時代には、子の義景らとともに三浦氏を滅ぼす 宝治合戦 のきっかけを作った。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

称名寺~結城朝光の菩提寺~

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称名寺 は、 結城朝光 の念仏堂を起源とする寺。 結城朝光の墓 結城朝光 は、 小山政光 と源頼朝に乳母を務めた 寒川尼 の子。 頼朝から 野木宮合戦 の恩賞として結城の地を与えられ、結城氏の祖となりました。 1254年(建長6年)2月24日死去(87歳)。 親鸞聖人 御霊屋門 称名寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

宿老十三人の合議制~鎌倉殿の13人~

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「13人」とは、 源頼朝 に仕えた有力者たちのうち、頼朝亡き後、二代 頼家 の時代に執られた政策 「十三人の合議制」 の構成員。 『吾妻鏡』によると・・・ 1199年(建久10年)1月13日、偉大な将軍源頼朝が死去すると、嫡男の頼家は20日に左中将となり、26日には頼朝の家督を相続します。 しかし・・・ 4月12日、頼家が直接訴訟を裁断することを停止させ、宿老十三人による合議によって裁判することを決定しています。 その十三人とは・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆