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源頼朝が千葉常胤に作らせた源氏の白旗には鳩が二羽

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『吾妻鏡』によると・・・ 奥州征伐 に当たって、 源頼朝 は源氏の白旗の作製を 千葉常胤 に命じました。 その理由は、頼朝が 挙兵 したとき、常胤が参陣してから次々と諸国の軍勢が参陣したという目出度い先例から、常胤に命じたのだといいます(参考: 鎌倉入り )。 1189年(文治5年)7月8日、常胤が頼朝に出来上がった源氏の白旗を献上します。 先祖・ 源頼義 の旗の寸法と同じで、上方に伊勢大神宮と八幡大菩薩、下方に相対する二羽の鳩の刺繍があったそうです。 源氏の白旗 ( 壺井八幡宮 ) 河内源氏の氏神・ 壺井八幡宮 の宝物「源氏白旗」には「八幡大菩薩」の文字が書かれています。 そして、八の字は相対する二羽の鳩。 常胤が献上した旗の鳩もこのようなものだったのでしょうか・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~八幡宮の額の鳩~ 鶴岡八幡宮 石清水八幡宮 鶴岡八幡宮 や 石清水八幡宮 の額の八の字も二羽の鳩。 石清水八幡宮 の 社殿 の蟇股の鳩は、一羽はクチバシを閉じ、一羽はクチバシを開けている「阿吽」の鳩。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鳩は八幡神の使い。 『吾妻鏡』に記録されている 梶原景時 の源頼朝宛の手紙によると ・・・ 壇ノ浦の戦い のときに、源氏の屋形船の上に二羽の白鳩が現れたそうです。 それは、平家一門の人たちが入水した時だったのだとか・・・。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

奥州征伐に「勅許を得る必要はない」と語った大庭景義

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源頼朝 は、 義経 を匿ったことを理由に 奥州平泉 の藤原泰衡討伐について朝廷に伺いをたてていましたが・・・ なかなか許可が下りません。 御家人を招集してしまった頼朝は、1189年(文治5年)6月30日、大庭景義を呼び出します。 すると、景義は頼朝にこう語ります。 「軍中では、将軍の命令を聞くのであって、天子の命令を待つ必要はありません。 奥州藤原氏 は代々源氏の家人です。 綸旨が下されなくとも、部下に罰を与えるのに何か問題がありますでしょうか。 参集している軍隊に日を費やさせることは、良い事ではありません。 早く出陣すべきです」 景義の言い分に、頼朝は鞍付きの馬を与えたのだといいます。 馬を引き連れてきたのは 小山朝光 。 朝光は、縁側にいた景義に手綱を投げます。 手綱を受けた景義は、郎党に引かせて、頼朝が奥に入った後、朝光に礼を述べました。 その理由は・・・ 馬を受け取るには、手綱を受けなければなりませんが、景義は、老人の上、 保元の乱 での怪我で歩行が思うようになりませんでした。 庭にも降りることができない景義に、朝光が手綱を投げて気遣ってくれたため。 頼朝も朝光の配慮に感心したのだそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 大庭氏は、桓武平氏の血をひく坂東八平氏の一つ鎌倉氏の一族。 大庭御厨 を開発した 鎌倉権五郎景政 を祖としていると考えられています。 大庭景義像 (茅ヶ崎市・神明大神宮) 大庭景義は、相模国の 大庭御厨 の中の懐島郷を本拠とした武将。 1156年(保元元年)の 保元の乱 で、 源為朝 の矢を受けて負傷し、家督を弟の 景親 に譲って懐島郷に隠棲したのだといいます。 1180年(治承4年)の 頼朝の挙兵 時には、弟の 景親 と 景久 は平家方に付きますが、景義は頼朝に味方しました。 鶴岡八幡宮 の造営、頼朝の 御所 の造営を仕切ったのは景義でした。 神明大神宮 (茅ヶ崎市) 景義が本拠とした懐島郷は、現在の茅ヶ崎市。 神明大神宮 は、館の鬼門に伊勢神宮を勧請して建立した社。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

奥州征伐の戦勝祈願~北条時政の願成就院と和田義盛の浄楽寺~

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願成就院 (伊豆の国市) 願成就院 は、1189年(文治5年)に 北条時政 が 源頼朝 の 奥州討伐 の戦勝を祈願して建立したとされる寺院。 大御堂に安置されている 運慶の諸仏 は、1186年(文治2年)に時政の発願によって造立されたもの。 浄楽寺 (横須賀市) 浄楽寺 は、1189年(文治5年)に 和田義盛 が建立したと伝えられている寺院。 収蔵庫に安置されている 運慶の諸仏 は、義盛が 奥州討伐 の成功を祈願して造立したものといわれています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

見ごろのヤマアジサイ~鎌倉:光則寺~2022/05/26

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鉢植えのヤマアジサイが見ごろです。 イワタバコ 間もなく咲きそうです。 ニオイバンマツリ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉アジサイの名所