投稿

鎌倉成就院のアジサイ参道2022/05/19

イメージ
2015年(平成27年)から2017年(平成29年)まで改修工事の際に多くのアジサイが宮城県南三陸町に移植されてしまいましたが、それでも100株近く植えられているようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉アジサイの名所

源義経を匿った興福寺と鎌倉に呼び出された聖弘

イメージ
源頼朝 と対立して、1185年(文治元年)11月に京都を落ちて行方をくらましていた 源義経 。 1186年(文治2年)の7月頃まで、 比叡山 に匿われていたことが判明したものの、その後は再び行方知れずになっていました。 しかし、9月20日、義経の郎党・堀景光が京都に潜伏していたところを比企朝宗に捕えられました。 景光の白状によって義経が 興福寺 に身を潜めていることが判明。 翌日、比企朝宗が数百騎を率いて興福寺の聖弘(しょうこう)の住坊を取り囲みますが、義経を見つけ出すことはできずに京都へ帰っています。 興福寺 興福寺 は、藤原氏の氏寺として創建された寺院で、武家不介入の治外法権を維持していました。 多くの僧兵を抱え、その強大な力で大和国を支配し、 源頼朝 も大和国に守護を置くことはできないでいました。 そういう寺院に武力をもって踏み込んだことで大きな騒ぎとなったようです。 12月25日には、別当の信円が自治権の侵害を朝廷に訴えていますが、一条能保が陳謝したことで収まったようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 興福寺 が 義経 を匿っていたことを知った鎌倉の 頼朝 は・・・ 翌1187年(文治3年)、義経を匿ったとして興福寺の聖弘(しょうこう)を鎌倉に呼び出します。 聖弘は義経と師檀の関係にあって、義経のために祈祷していたといいます。 鎌倉に来た聖弘は小山朝光に預けられていましたが、3月8日、頼朝は直接の聖弘に面会します。 そして・・・ 「義経は天下を乱す凶臣で、その行方をくらまし、朝廷からは処刑するよう求められている。 そのため、天下の人々が皆義経に従わないでいるのに、あなただけが義経のために祈祷を行っている。 しかも、義経に同意して何か企んでいるという噂も耳にするが、それはどうしたことか」 と尋問すると、聖弘は・・・ 「義経があなたの代官として平家を追討するときに、義経とは祈祷の約束をしたので、それ以来誠意をもって祈祷を続けておりました。 これが報国の志ではないと言われるのでしょうか。 また、義経が関東から厳しく咎められて行方をくらましたとき、師檀の関係のよしみから奈良に来ましたので、一時匿い、頼朝様と和解するよう諫めた上で、下法師らをつけて伊賀国へ送り出しました。 その後は音

源義経を匿った比叡山

イメージ
1185年(文治元年)11月3日、 源頼朝 と対立して都を落ちた 源義経 。 11月6日、九州へと船出しますが摂津国 大物浦 で難破した後、姿をくらまします。 11月17日には、義経の妾・ 静御前 が義経と別れた 吉野山 で捕えられ、翌1186年(文治2年)3月1日、母の磯禅師とともに鎌倉へ送られました。 静御前が頼朝の命で 鶴岡八幡宮 で舞っている頃、義経が京都に潜伏しているという噂が広まります。 『吾妻鏡』5月13日条にも、義経が叔父の 源行家 とともに京都に潜伏しているという噂や、 比叡山 に匿われているかもしれないという記事が載せられています。 比叡山延暦寺 延暦寺 は、788年(延暦7年)、最澄によって開かれた天台宗総本山。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 畿内一帯に下った 頼朝 の厳命もあってか・・・ 5月12日、 源行家 が和泉国小木郷の日向権守清実宅にいるという密告があり、北条時定、常陸坊昌明らが討手として向かって誅殺されています。 行家は 源為義 の十男。 源頼朝 に 以仁王の令旨 を届けた人物ですが、頼朝と対立し、 壇ノ浦の合戦 後は義経に近づき行動を共にしていました。 6月6日、義経の母・ 常盤御前 が一条河崎観音堂の辺りで捕えられます。 『玉葉』によると、義経が岩倉(現在の京都市左京区)に潜伏していると証言したのだといいます。 一条能保は、義経が 仁和寺 や岩倉のあたりに隠れているという情報を得て梶原朝景、後藤基清らが逮捕に向かったが、その事実はなかったという報告を鎌倉にしています。 また、現在は比叡山にいるという噂があるとも報告しています。 (※一条能保は頼朝の妹婿。) 6月16日、大和国宇多郡で源有綱が発見され、北条時定と合戦した後、深山に入って自刃しています。 有綱は 以仁王 とともに平家打倒の挙兵をした 源頼政 の孫で、義経の娘あるいは養女を妻としていたのだという説もあるようです。 『吾妻鏡』にも、有綱が義経の婿だとする記述があります(1185年(元暦2年)5月19日条)。 7月25日、鈴鹿山に逃亡していた伊勢義盛が誅殺されます。 こうして探索は義経に近づいて行くように思われましたが・・・ 仁和寺 仁和寺 は、886年(仁和2年)、光

黄金の都を築いた奥州藤原氏三代~吾妻鏡~

イメージ
奥州藤原氏三代とは、 藤原清衡 ・基衡・ 秀衡 のこと。 『吾妻鏡』によると・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 清衡は、継父・清原武貞(鎮守府将軍の清原武則の子)亡き後、奥六郡(伊澤、和賀、江刺、稗貫、志波、岩井)を伝領し、嘉保年中(1094-1095)頃に江刺郡豊田館を平泉に移して宿館とし、33年後に亡くなった。 陸奥と出羽の両国には、一万余の村があり、村ごとに寺院を建て、その燈明用の油代のための水田を寄付した。 平泉文化遺産センター掲示 柳之御所跡 中尊寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 基衡は、父を超える財福となって両国を官領し、33年後に亡くなった。 毛越寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 秀衡は、絶えすたれた寺院を再興した。 鎮守府将軍となってからは、官職も父や祖父を越えて、その栄耀は子弟にも及んだ。 33年を経て亡くなった。 無量光院跡 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ この99年間に、建築された寺院や堂塔は、幾千万か数え切れません。 中尊寺金色堂 金色堂の須弥壇内には、清衡・基衡・秀衡のミイラ化した遺体が納められています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ