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下田逸郎さんの「踊り子」と八重姫~鎌倉殿の13人~

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下田逸郎さんの「踊り子」 時代は違うし、置かれている環境も違いますが・・・ なぜか、 八重姫 とこの歌がダブります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 恋の終わりは いつも同じ だけど今度だけ違うの なにかが まわる人生のステージで 踊るあなたの手 ふるえて綺麗ね あなた愛して気づいたことは そうね 私もいつかは死んでゆくこと ・・・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 八重姫御堂 (伊豆の国市:真珠院) 八重姫御堂 には、 源頼朝 との悲恋に死んだという 八重姫 の木像と供養塔が安置されています。 私としては・・・ 「鎌倉殿の13人」では、 八重姫 と 北条義時 が結婚することを期待しますが・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

玉前神社と上総広常の願文

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玉前神社 は、上総国の一宮。 上総権介平広常公顕彰碑 『吾妻鏡』によると、 1182年(治承6年)7月、 上総広常 は 玉前神社 に鎧​を奉納。 そこには、 源頼朝 の祈願成就と東国泰平を祈った願文が結び付けてありました。 翌年、広常は謀反を疑われて 梶原景時 に暗殺されてしまいますが、この願文によって広常に謀反の心がなかったことが明らかとなり、頼朝は広常を殺してしまったことを悔やんだのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

宗悟寺~東松山市:比企能員館跡~

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宗悟寺 は、鎌倉幕府二代将軍 源頼家 の側室若狭局が、伊豆の 修禅寺 で暗殺された頼家の追福のため、 比丘尼山 に建立した壽昌寺を始まりとしているのだと伝えられています。 若狭局は、1203年(建仁3年)に 北条時政 に滅ぼされ 比企能員 の娘。 宗悟寺の周辺が能員の館跡だとされています。 1592年(文禄元年)、武蔵国比企郡を与えられた森川氏俊が比丘尼山の壽昌寺を現在地に移して再興し、宗悟寺と改めて菩提寺としたのだそうです。 比企一族顕彰碑 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉の若狭局伝説 東松山市の伝説では、若狭局は武蔵国比企郡で源頼家の菩提を弔ったとされていますが、『吾妻鏡』の記事からすると・・・ 比企能員の変で死んだものと考えられます(頼家より先に没している。)。 蛇苦止明神 (鎌倉:妙本寺) 1260年(文応元年)、北条政村(のちの七代執権)の娘は、若狭局に祟られて、蛇のような狂態を見せるようになりました。 物の怪となって現れた若狭局は比企ヶ谷の土中にいると言ったのだそうです。 鶴岡八幡宮 の隆弁による加持祈祷によって快復しますが、政村は比企氏の邸跡に若狭局を蛇苦止明神として祀る社を建立したのだといいます。 ※比企ヶ谷は鎌倉の比企邸があった場所。 ※ 妙本寺 は比企邸跡に建てられた寺。 宗悟寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

平家が拠る西方に飛んで行った住吉大社の神鏑~源平合戦~

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『吾妻鏡』によると、 1185年(元暦2年)2月19日、平家追討の祈りを奉仕していた住吉社( 住吉大社 )の神主・津守長盛が京都へやってきて院に報告します。 2月16日に住吉社恒例の御神楽を奉納すると、子の刻(深夜0時頃)になって、神殿から鳴鏑(鏑矢)が飛び出し、西方を目指して飛んでいったのだとか。 『平家物語』によると、 昔、神功皇后の三韓征伐では、伊勢大神宮より二神が遣わせされたのだといいます。 一神は住吉大明神、もう一神は諏訪大明神。 鏑矢の話を聞いた 後白河法皇 は、「今回も朝敵を滅ぼしているだろう」と喜び、御剣以下、種々の神宝を津守長盛に持たせたのだとか。 それから間もない、2月19日、 源義経 は 屋島 の平家軍を敗走させ、3月24日には 壇ノ浦 で平家を滅ぼしています。 住吉大社 住吉大社 の神主だった津守長盛の母は 源為義 の娘で、 源頼朝 や 源義経 の従兄弟という説があります。 のちに、頼朝と対立して逃亡生活を送ることとなった義経が 吉野山 へ向かう際、津守長盛のもとで一夜を過ごしたという言い伝えも残されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ