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源頼朝を逃がした飯田家義~石橋山の戦い~

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1180年(治承4年)8月24日未明、 石橋山の戦い は 源頼朝 の大敗に終わりました。 頼朝を戦場から逃したのは、相模国鎌倉郡飯田郷を本拠していた飯田家義。 家義は、頼朝に加勢するつもりでしたが、前方を 大庭景親 に後方を 俣野景久 に塞がれてしまったため、止む無く平家方に付いて行動していたのだといいます。 頼朝が大敗すると、六騎を景親と戦わせ、この間に頼朝を逃がしたのだと伝えられています。 その後、頼朝が落とした数珠を持って駆けつけます。 この数珠は、頼朝が普段から持ち歩いていたもので、狩りなどで相模国の武士達は皆この数珠を見知っていたといいます。 それを家義が探し出して持ってきてくれたので、頼朝は大いに喜びました。 家義は供を願い出ますが、 土肥実平 に「大人数では山中に隠れているのが難しい」と説得され、泣く泣くその場を退去したのだとか。 富士塚城址 (飯田城址) 横浜市泉区の富士塚公園は、飯田家義の館があった場所と伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源頼朝を助けた伊豆国の武将たち~石橋山の戦い~

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石橋山 で大敗した 源頼朝 は椙山の杉山の堀内という辺りに陣取りました。 加藤景廉 と大見実政が三千騎を率いて追いかけて来る 大庭景親 の軍を防ぎます。 景廉の父景員や実政の兄政光も子や弟を思って留まって防戦しました。 加藤光員・ 佐々木高綱 ・ 天野遠景 ・天野光家・ 堀親家 ・堀助政も同様に戦い、多くの兵を討ち取りました。 頼朝 も何度も戦い、放つ矢は百発百中で、羽まで突きとおり、多くの兵を射殺したのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

北条宗時慰霊のために北条時政が造立させた阿弥陀三尊~函南町~

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阿弥陀三尊像 (かんなみ仏の里美術館) 「かんなみ仏の里美術館」に収蔵されている「阿弥陀三尊像」は、鎌倉時代のもので実慶の作(重要文化財)。 石橋山の戦い で討死した 北条宗時 の慰霊のために父の 北条時政 が造立させ、宗時の墳墓堂に安置されたものではないかと伝えられています。 実慶は、奈良の 興福寺 を本拠とした「慶派」の仏師。 運慶 の父康慶の弟子で、運慶と同じ時期に活躍していたものと推定されています。 時政は、 願成就院 の諸仏を運慶に依頼していますので、宗時のために慶派仏師に造仏を依頼したとしてもおかしなことではありません。 修禅寺 の大日如来像も実慶の造仏です。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

石橋山で大敗、北条宗時討死!~「鎌倉殿の13人」第五話

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山木館 を襲撃して目代の 山木兼隆 を討った 源頼朝 は相模国へ進軍しますが、 石橋山 で 大庭景親 ・ 伊東祐親 らの平家軍に大敗。 土肥山中に逃亡。 北条時政 と 北条義時 は、 武田信義 の援軍を得るため甲斐国へ。 北条宗時 は 北条 へ帰ろうとしますが、工藤茂光とともに討たれてしまいました。 兄宗時と「坂東武者の世を創り、そのてっぺんに北条がたつ」と約束した義時。 絶体絶命の危機をどうだっするのか。 伊豆山権現 に匿われている 政子 や伊東に戻った 八重姫 はどうなる・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 石橋山古戦場 (小田原市) 石橋山の戦い では、先陣を切った 佐奈田与一義忠 が討死。 佐奈田霊社 (石橋山古戦場) 佐奈田霊社 は 義忠 を祀っています。 文三堂 (石橋山古戦場) 文三堂 は 義忠 の郎党文三を祀っています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ しとどの窟 (湯河原町) しとどの窟 は、 石橋山の戦い に敗れた頼朝が隠れ潜んだという岩窟。 頼朝はここに守り本尊の 聖観音像 を置いて逃げたのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 北条宗時の墓 (函南町) 『吾妻鏡』によると、 北条宗時 は土肥から桑原を経て平井へと向かおうとしたときに討たれました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 伊豆山神社 (熱海) 政子らは 伊豆山権現 (現在の伊豆山神社)に匿ってもらっています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ