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源頼朝の挙兵!その2~挙兵の日は8月17日~

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治承4年8月2日、 平家打倒の令旨 を発して挙兵した以仁王と 源頼政 追討のため召集されていた 大庭景親 をはじめとする東国武士が 源頼朝 を討つため京都から戻ってきます。 8月6日、伊豆の 源頼朝 は山木館襲撃を17日と決定。 この日頼朝は、 工藤茂光 ・ 土肥実平 ・ 岡崎義実 ・宇佐見祐茂・ 天野遠景 ・ 佐々木盛綱 ・ 加藤景廉 など、当時頼朝の下に集まっていた武士を一人一人部屋に呼んで丁寧に言葉をかけたのだといいます。 三嶋大社 8月17日は、頼朝が崇敬していた 三嶋大社 の祭礼の日。 頼朝は祭りの雑踏を利用して 山木館 を襲撃しようとしたのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源実朝が暗殺された日。

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1219年(建保7年)1月27日、 鶴岡八幡宮 では 源実朝 の右大臣拝賀式が行われました。 この日は晴れていましたが、夕刻になって雪となり7,80㎝積もったそうです。 『吾妻鏡』によると・・・ 大江広元 は 実朝 に、 「私は成人してから涙を浮かべたことがありませんでした。 しかし今、涙を止めることができません。 これはただ事ではありませんので、何か起こるかもしれません。 東大寺供養の際の頼朝様の例にならって、束帯の下に腹巻(鎧)を着けていかれるとよいでしょう」 と言いました。 しかし、源仲章は 「大臣大将にまで昇った人で、未だそのような式に出た人はありません」 といって止めたのだといいます。 実朝 の髪を梳かしていた宮内公氏は、一筋の髪の毛を記念にもらったそうです。 そして、庭の梅の木を見た 実朝 は、 「出テイナハ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ」 (主人のいない家になってしまうが、花を咲かせることを忘れるな) と詠んだのだそうです。 実朝 は午後6時頃、雪の中を 鶴岡八幡宮 へと出発します。 南門を出るときには霊鳩が鳴きさえずっていたといいます(源氏にとって鳩は特別な鳥です。)。 車から降りるときには、刀を折ってしまったそうです。 参拝を終えた 実朝 が石段の上にさしかかると、甥で 鶴岡八幡宮 の別当だった 公暁 が襲いかかります。 「父の敵を討った」という名乗りをあげたのを聞いた者がいるともいいます。 石段下にいた御家人がすぐに駆けつけますが、すでに 公暁 の姿はありませんでした。 実朝 の首を取った 公暁 は、後見人の備中阿闍梨の雪ノ下北谷の家に行き、食事の間も 実朝 の首を放さなかったといいます。 そして、 公暁 の乳母子弥源太を 三浦義村 邸に遣わし、 「今、将軍の席が空いた。次は自分が将軍となる順番だから、早く方策を考えよ」 と指示しています。 これに対し、 義村 は、すぐに屋敷に来るよう伝える一方で、 北条義時 に連絡をとっています。 義時 から 公暁 を殺すよう命ぜられた 義村 は、 長尾定景 を差し向けます。 山越えをして義村邸に向かっていた 公暁 は、定景によって討ち取られ、首は義

源頼朝の挙兵!その1~山木館の絵図が完成~

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1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵を決意した 源頼朝 は、まず、伊豆国目代の山木兼隆を討ち取ることにしますが、 山木館 は要害の地にあって攻めるのに困難を極めると推測されていました。 『吾妻鏡』によると・・・ 1180年(治承4年)8月4日、密偵として 山木館 に送り込んでいた藤原邦通が、作成した山木館と付近の絵図を頼朝に届けます。 その出来映えは、まるで現地にいるかのようなものだったといいます。 頼朝 は、 北条時政 を呼んで邦通の絵図をもとに山木館襲撃の軍略を練りました。 邦通は、 安達盛長 の推挙で頼朝に仕えるようになった公家。 山木館跡 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源頼朝が源氏再興を祈願した三嶋大社と頼朝伝説

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三嶋大社 伊豆国一之宮の 三嶋大社 。 伊豆 に流されていた 源頼朝 は、源氏再興を祈願するために百日間の日参をしたのだといいます。 安達藤九郎盛長警護の跡 一つの根から赤松と黒松が生えている相生松のある場所は、 安達盛長 が日参する頼朝を警護した所なのだといいます。 源頼朝・北条政子の腰掛石 神馬舎 横に置かれている石は、日参の 源頼朝 と 北条政子 が休息のために腰を掛けた石なのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 成願寺 (伊豆の国市) 三嶋大社 への途次には茶店があったそうです。 成願寺 は、頼朝が餅売りの嫗(おうな)のために建立したという寺。 頼朝公手洗水址 (三島市:右内神社) 右内神社 は、 三嶋大社 の随神門として鎮座する社。 三嶋大社 に日参していた 頼朝 が度々立ち寄っていたのだとか・・・ 間眠神社 (三島市) 三嶋大社 に参詣の 頼朝 は、疲労のため路傍の祠の松の根もとで仮眠をとったのだといいます。 以来、松は「まどろみの松」と呼ばれ、祠は 間眠神社 と呼ばれるようになったのだとか。 妻塚観音堂 (三島市) 妻塚観音堂 は、 大庭景親 の妻が祀られている堂。 頼朝 を暗殺しようとした景親は、誤って妻を殺してしまったのだとか。 手無地蔵 (三島市) 三嶋大社 に参詣する 頼朝 の後を衝けてくる怪しい女。 頼朝が腕を切り落とすと・・・地蔵尊だった・・・ 願成寺 (三島市) 願成寺 は、 三嶋大社 に日参する頼朝が宿舎とした庵が始まりなのだとか。 笠置の石 (三島市:宝鏡院) 宝鏡院 の「笠置の石」は三島七石の一つ。 源頼朝 が 三嶋大社 に参詣する折に笠を置いたのだとか・・・ 宗徳院 (三島市) 三嶋大社 に日参していた 頼朝 は、 宗徳院 にも詣でたのだといいます。 宗徳院の延命地蔵尊は、頼朝の祈願仏だったのだとか。 頼朝の井戸 (三嶋大社前) 三嶋大社 へ日参した 頼朝 は、この井戸の水で喉を潤したのだとか・・・ 法華寺 (三島市) 法華寺 には写経した般若心経が奉納されたのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1180年(治承4年)8月17日、 源頼朝 は 挙兵 します。 この日は三嶋大