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まつだ桜まつり2022~松田町:西平畑公園~

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西平畑公園は松田山にある富士山や相模湾を一望できる観光スポット。 松田山の斜面には約360本の河津桜が植えられています。 松田町は 源頼朝 の兄朝長が生まれ育った地。 頼朝ゆかりの 寒田神社 や 寄神社 もあります。 寒田神社 寄神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1月9日放送開始

令和4年:甲斐善光寺御開帳

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7年の一度の 信濃善光寺 の前立本尊御開帳に合わせて行われる 甲斐善光寺 の御開帳。 2022年(令和4年)4月3日(日)から6月29日(水)。 今回の御開帳は、密を避けるため、期間が1ヶ月長く設定されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 甲斐善光寺 は、 上杉謙信 との合戦による 信濃善光寺 の焼失をおそれた 武田信玄 が、1558年(永禄元年)に信濃善光寺の本尊を甲斐国へ移したことに始まります。 創建時の伽藍は焼失してしまいますが、1796年(寛政8年)に再建されたもので、山門や金堂はいずれも重要文化財に指定されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

東国の主君「鎌倉殿」

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1180年(治承4年)12月12日、 源頼朝 の新亭には、侍所別当に任命された 和田義盛 をはじめとする御家人311人が出仕。 頼朝 は「鎌倉の主」に推戴されました。 東国の主君となった 頼朝 は「鎌倉殿」と呼ばれるようになります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 「鎌倉殿」 頼朝 の務めは、 一、戦功をあげた者の所領を安堵すること。 一、戦功に応じた恩賞を与えること。 です。 富士川の戦い 後には大々的な論功行賞が行われたと『吾妻鏡』は伝えています。 未だ罪人の 頼朝 が本来このような事ができるはずもないのですが・・・。 朝廷に代わる支配者であることを大々的に宣言したのでしょう。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~御家人~ 御家人というのは、武士に従う従者=家人に「御」の字を付けたものです。 つまり、 頼朝 に従う家人を頼朝への敬意から「御」の字を付けて「御家人」と呼ぶようになりました。 鎌倉殿の御家人になるということは、鎌倉殿への「忠誠と奉公」が要求されます。 一方、鎌倉殿は「所領安堵」と「新恩の支給」を義務としています。 鎌倉の新政権はこのような 御恩と奉公の主従関係 によって成り立っていました。 東国の武士が鎌倉殿 頼朝 に期待したのは、朝廷の下での侍大将ではなく、所領を安堵してくれて、争いが起こった場合には、公正な裁判を行ってくれる指導者だったということです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~侍所の設置~ 鎌倉殿と御家人の主従の関係は一応出来上がっても、全ての御家人を統制する機関が必要となります。 そのため、新政権にいち早く設置されたのが 侍所 です。 侍所の別当(長官)には 和田義盛 が任命されました(1180年(治承4年)11月17日)。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~支配者頼朝と年号~ 頼朝 の 挙兵 から約1年後、1181年(治承5年)7月、朝廷は年号を養和と改めました。 さらに翌年には寿永と改められています。 しかし、 頼朝 は、養和・寿永の年号を使用せず治承の年号を使用し続けました。 これは朝廷の支配体制を認めないという強い意志表明です。 頼朝 が寿永の年号を用いたのは寿永2年からで、この年に何が行われたかというと、 後白河法皇 が頼朝に東海・東山両

鎌倉殿が誕生した日

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大倉幕府跡 (大倉御所跡) 1180年(治承4年)8月17日、 伊豆国 に流されていた 源頼朝 が 挙兵 。 目代の 山木兼隆 を討った頼朝は相模国へ進軍。 石橋山 で 大庭景親 と 伊東祐親 の軍勢に大敗を喫しますが、 真鶴岬 から 安房国 へと渡り再挙。 大軍勢を率いて、10月6日(7日とも)、 鎌倉入り を果たしました。 そして、12月12日、大倉郷に新造の 御所 が完成します。 この日、上総広常邸を発って御所に入った頼朝が寝殿に上がると、侍所別当の 和田義盛 をはじめとする御家人311名が侍所に対座。 そこで頼朝は「鎌倉の主」に推戴されています。 「鎌倉殿」の誕生です。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

鎌倉の紅葉:源義朝の旧跡亀ヶ谷2021/12/10

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鎌倉の亀ヶ谷。 頼朝 の父 義朝 が屋敷を構えた場所。 南関東の武士団を統率する地位を確立した義朝は、東国を長男の義平に任せて中央へ進出。 義平は、北関東を本拠とした叔父の義賢の攻めて討ち取り、東国での地位を固めました。 壽福寺 壽福寺 は、義朝の旧跡に建てられた寺。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

鎌倉:葛原岡神社のイチョウ2021/12/10

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日野俊基墓 仮粧坂 源氏山公園 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1月9日放送開始