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堀親家の館跡と供養塔がある定林寺~伊豆市~

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堀親家 は、 源頼朝 が 伊豆国 の流人だった頃からの側近。 1180年(治承4年)8月17日、頼朝の 源氏再興の挙兵 に参じ、 山木館襲撃 ・ 石橋山の戦い で活躍した武将です。 ただ、頼朝が亡くなると・・・ 1203年(建仁3)9月2日、 北条時政 が 比企能員 を暗殺し、 北条義時 らが比企邸を攻めて比企一族を滅ぼすと、 源頼家 は9月5日、 和田義盛 ・ 仁田忠常 に書状を出して北条時政追討を命じます。 書状を届けたのは堀親家。 しかし、 和田義盛 は書状を時政に渡し、親家は捕えられて工藤行光に誅殺されました。 仁田忠常 は翌日、北条時政邸に呼び出された帰りに 加藤景廉 に誅されています。 ~堀親家の菩提寺~ 堀親家供養塔 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

鎌倉市景観重要建築物等~萬屋本店~

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2021年(令和3年)9月2日、由比ガ浜大通りにある萬屋本店が「景観重要建築物等」に指定されました。 のり真安齋商店

小笠原流弓馬術の祖・小笠原長清

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小笠原長清(おがさわらながきよ)は、高倉天皇の下で滝口武者として活躍した甲斐源氏・加賀美遠光の次男。 甲斐国巨摩郡小笠原郷を相続し、高倉天皇から小笠原の姓を賜りました。 母は杉本義宗の娘( 和田義盛 の娘という説も。)。 妻は 上総広常 の娘。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』によれば、 1180年(治承4年)10月19日、平家軍を迎え撃つため黄瀬川の宿所にいた 源頼朝 のもとに参陣しています。 それまでは平知盛の被官として京にいましたが、母の病気を理由に帰国を許してもらたのだそうです。 その後は、頼朝の御家人として活躍し、信濃守に任じられました(長清は信濃守護家小笠原家の祖)。 馬術・弓術に優れた才能を発揮し、海野幸氏・望月重隆・武田信光とともに 弓馬四天王 の一人に数えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1188年(文治4年)正月20日の 二所詣 や1193年(建久4年)5月の 富士裾野の巻狩り に随行。 1193年(建久4年)8月16日の鶴岡八幡宮放生会の 流鏑馬 では射手を務めました。 小笠原流流鏑馬 1194年(建久5年)には、頼朝の命により 東大寺大仏殿 の多聞天像を造立負担をしています。 多聞天 (東大寺大仏殿) ※現在の多聞天は長清の時代のものではありません。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~那須野の巻狩りで選ばれた弓馬の達人~ 1193年(建久4年)、 富士裾野の巻狩り に先立って催された那須野の巻狩り。 このとき頼朝は、弓馬術に優れた腹心の者22名を選んで弓箭を帯びさせました。 他の者は一万騎もいたそうですが、弓箭を帯びず勢子の役をしたのだそうです。 22名に選ばれたのは、 北条義時 武田信光 小笠原長清 里見義成 小山朝光 下河辺行平 三浦義連 和田義盛 千葉成胤 榛谷重朝 諏方盛澄 藤沢清親 佐々木盛綱 渋谷高重 葛西清重 望月重義 梶原景季 工藤行光 仁田忠常 狩野宗茂 宇佐美助茂 土屋義清 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~頼朝死後の小笠原家~ 子の長経は 源頼家 に仕えたことから、1203年(建仁3年)9月4日に処罰されますが( 比企能員の変 )、姉妹の大弐局は 源実朝 の養育係を務め、嫡男時長は1219年(承久元年)の三寅(のちの四代将軍

2021小出川彼岸花まつり

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藤沢市、寒川町、茅ヶ崎市を流れる小出川。 小出川沿いには約3㎞にわたって彼岸花が咲きます。 2021年の彼岸花まつりは9月25日(土)。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉のヒガンバナ

特別展「鶴岡八幡宮の名刀-歴史に宿る武士の信仰-」~鶴岡ミュージアム~

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源頼朝 佩刀と伝えられる国宝『沃懸地杏葉螺鈿太刀』(いかけじぎょうようらでんたち)をはじめ、源頼義寄進と伝えられる国宝『朱漆弓』・国宝『沃懸地杏葉螺鈿平胡なぐい』(いかけじぎょうようらでんひらやなぐい)、源頼朝が 東大寺 の鎮守 手向山八幡宮 から贈られたという重要文化財の『菩薩面』などが公開されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 9月14日~16日 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ