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源頼朝ゆかりの神楽坂若宮八幡神社

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神楽坂若宮八幡神社 は、 源頼朝 が 鶴岡八幡宮 の 若宮 を勧請したのが始まりという社。 若宮は、神霊を他所に分霊して祀った社、又は、本宮の祭神の子を祀った社。 鶴岡八幡宮 の 若宮 は後者。 そのため、祭神は仁徳天皇だったようですが、のちに応神天皇も祀られるようになったのだといいます(仁徳天皇は応神天皇の子)。 神楽坂若宮八幡宮 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

平将門を祀る神田明神~東京千代田区~

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神田明神 は、730年(天平2年)の創建。 江戸時代には、江戸総鎮守として尊崇された神社です。 平将門が祀られていることでも知られています。 神田明神 の創建地は、武蔵国豊島郡芝崎村。 現在の千代田区大手町にある 将門塚 の周辺だったのだといいます。 神田明神 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~将門の首が飛来した地~ 将門塚 ~将門の首級が晒された地~ 神田明神 (京都)

将門塚~京都から飛んで来た平将門の首:東京千代田区~

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東京都千代田区大手町にある将門塚は、平安時代の武将・平将門の首塚。 伝説によると、反乱を起こして藤原秀郷と平貞盛に討たれた将門の首は、京都で晒されますが、3日後に白光となって舞い上がって飛び去ったのだといいます。 そして、飛来したのがこの地。 恐れた村人たちは、塚を作って埋葬したのだといいます。 その後、将門の霊は、塚の傍らにあった 神田明神 に奉祀されています。 源頼朝 の挙兵に参じた房総平氏の 千葉常胤 ・ 上総広常 は将門の子孫。 将門塚 は、令和2年11月から改修工事が行われ、令和3年4月に竣工しました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~将門が祀られた神田明神~ 神田明神 ~将門の首級が晒された地~ 神田明神 (京都) 京都の膏薬の辻子にある 神田明神 は、平将門の首級が晒されたという地にある祠。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 将門塚

三崎にあった源頼朝の三つの山荘~頼朝花の三御所~

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『吾妻鏡』によると・・・ 源頼朝 は1194年(建久5年)閏8月1日に山荘を建てるため三崎の津に出かけています。 三崎の白浪と青山の景色は、極めて優れていたようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 大椿寺 大椿寺 は、 源頼朝 の椿の御所跡に建てられた臨済宗 妙心寺 派の寺。 開基は頼朝の妾として椿の御所に住んでいた妙悟尼。 開山は 建長寺 の旭永。 本尊は十一面観世音菩薩。 1199年(建久10年)に頼朝が亡くなると、妙悟尼は旭永に大椿寺を開かせ、自らは尼となって頼朝の菩提をと弔ったのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 本瑞寺 本瑞寺 は、 源頼朝 の桜の御所跡に建てられた曹洞宗の寺。 頼朝は、ここに千本の桜を植えさせて花見を楽しんだのだとか・・・ 開基は、戦国期の三浦氏の最後の当主・ 三浦義同 (道寸)の嫡男・義意と伝えられています。 本尊は延命地蔵菩薩 保存されている室町時代の梵鐘は三崎最古。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 見桃寺 見桃寺 は、 源頼朝 の桃の御所跡に建てられた臨済宗 妙心寺 派の寺。 三崎船奉行だあった向井正綱が1616年(元和2年)に創建。 開山は玄虎。 本尊は聖観世音菩薩。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 歌舞島 現在は陸続きですが、鎌倉時代は離れ島で兜に似ていたことから「兜島」と呼ばれていたという 歌舞島 。 源頼朝 が歌舞や酒宴を楽しんだことから歌舞島と呼ばれるようになったのだとか。 また、 三浦義村 の招きで訪れた四代将軍の 藤原頼経 が「来迎の儀」を行い、読経歌舞を催したことからとも伝えられています。 歌の町の碑 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

必中必殺の源為朝の矢を受けて生き残ったのは大庭景義ただ一人!

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大庭景義像 (茅ヶ崎市・神明大神宮) 大庭景義は、 大庭御厨 の懐島郷を本拠とした武将。 保元の乱 で、 源為朝 の矢を足に受けて重傷を負い、歩行困難となってしまいますが、必中必殺の為朝の矢を受けて生き残ったのは景義一人ともいわれています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』によると・・・ 1191年(建久2年)8月1日、新築の御所では、大庭景義が酒肴を献上し、宴会が催されます。 同席者は、 足利義兼 、 千葉常胤 、 小山朝政 、 三浦義澄 、 畠山重忠 、 八田知家 、工藤景光、土屋宗遠、 梶原景時 、梶原朝景、 比企能員 、 岡崎義実 、 佐々木盛綱 ら。 宴会の席で景義は、頼朝の命により、 保元の乱 での逸話を語ります。 「勇士が用意すべきものは武具である。 中でも、弓の長さは重要である。 鎮西八郎為朝( 源為朝 )は、わが国で並ぶ者のいない弓の名人だったが、弓が身丈に対して長すぎたのかもしれない。 保元の乱の際、景義は、大炊御門河原で為朝に出会い、絶体絶命の状況になった。 そのとき、密かに思ったことは、「為朝は鎮西の武将だから、乗馬しているときの弓はそれほどでもないのではないか」ということ。 一方、景義は東国で乗馬に慣れている。 景義が為朝の右にすばやく廻ると、為朝はとっさに後ろを振り返るが、身丈よりも大きい弓を使っていたため、弓が下がり、放った矢は体ではなく膝に当たった。 もし、右に廻る作戦をとらなければ、命を落としていただろう。 若い者たちは「勇士は乗馬の達人であるべきこと」を耳の底に留めておかねばならない」 この話を聞いていた同席者は皆感心し、頼朝からはお褒めの言葉を頂いたのだとか・・・ 神明大神宮 (茅ヶ崎市) 神明大神宮 は、大庭景義が、館の鬼門に伊勢神宮を勧請して建立した社。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

長谷寺の福壽地蔵と千体地蔵

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地蔵堂 福壽地蔵 千体地蔵 卍池 妙智池のハス ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ