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「鎌倉検定」で「鎌倉殿の13人」~源頼朝の一族~

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源頼朝の一族について、次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。 (第2回鎌倉検定試験2級:歴史・旧跡の問題) 1 源義経は、侍所の別当和田義盛に宛てて、「腰越状」を送るなど、兄頼朝の怒りを解こうと苦慮した。 2 源頼朝は、娘の大姫を入内させて天皇家と姻戚関係を結ぼうと願ったが、果たせなかった。 3 源範頼は、曽我兄弟の仇討ち事件のとき、謀反を疑われて、伊豆の修善寺に流された。 4 源頼家は、梶原景時や比企能員らの後ろ盾を失って、自らも密かに暗殺された。 源義経 が 満福寺 で書いたといわれる 「腰越状」 は、 和田義盛 に宛てたのではなく、 大江広元 に宛てた手紙でした。 源頼朝の一族について、次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。 (第6回鎌倉検定試験2級:歴史・旧跡の問題) 1 源頼家は、梶原景時や比企能員らの後ろ盾を失って、自らも密かに暗殺された。 2 源範頼は、郎従らとともに伊勢神宮領大庭御厨に乱入するという事件を起こした。 3 源実朝は、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀式の際、甥の公暁に暗殺された。 4 源義経は、公文所の別当大江広元に宛てて、「腰越状」を送るなど、兄頼朝の怒りを解こうと苦慮した。 2の説明は、源頼朝の父 義朝 のもの( 大庭御厨 )。 頼朝の子 頼家 は、1203年(建仁3年)の 比企氏の乱 後、伊豆 修禅寺 に幽閉され、翌年暗殺されました。 頼朝の弟 範頼 は、1193年(建久4年)、 富士裾野の巻狩り で起こった 曽我兄弟の仇討ち の後、謀反の罪で伊豆 修禅寺 に流され、間もなく 梶原景時 に攻められ最期を遂げました( 源範頼の謀反 )。 頼朝の子 実朝 は、1219年(建保7年)、甥の 公暁 に暗殺され、 勝長寿院 に葬られました( 源実朝の暗殺 )。 頼朝の弟 義経 は、1185年(元暦2年)、 平宗盛 らを護送して鎌倉に凱旋しようとしますが、鎌倉に入ることは許されず、腰越に留まり、 満福寺 で 大江広元 宛てに 腰越状 を書いたのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

「鎌倉検定」で「鎌倉殿の13人」~有力御家人の滅亡~

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次の鎌倉幕府の有力御家人とその滅んだ場所の組み合わせで正しくないものはどれか。 (第7回鎌倉検定試験1級) 1 和田義盛・・・由比ヶ浜 2 比企能員・・・常盤 3 梶原景時・・・駿河清見関 4 三浦泰村・・・法華堂 歴史・旧跡について関連のあることがらの組み合わせとして誤っているものを1~4から選びなさい。 ~有力御家人と終焉の地 ~ (第9回鎌倉検定試験2級) 1 梶原景時-駿河国清見関 2 比企能員-名越・北条時政邸 3 畠山重忠-武蔵国二俣川 4 和田義盛-七里ヶ浜 梶原景時 は、1199年(正治元年)、 結城朝光 を讒言したことで鎌倉を追放され、翌年正月20日に上洛途上の 駿河国清見関 で討死しました。 比企能員 は、1203年(建仁3年)9月2日、北条時政邸に誘きだされ、 天野遠景 と 仁田忠常 に暗殺されました。 畠山重忠 は、1205年(元久2年)6月22日、 稲毛重成 の虚偽報告を受けて 菅谷館 から鎌倉へ向かう途中の武蔵国 二俣川 で 北条義時 らに討たれました。 和田義盛 は、1213年(建暦3年)5月2日、北条義時打倒の兵を挙げますが、翌日、 由比ヶ浜 で最期を遂げました。 三浦泰村は、1247年(宝治元年)6月5日、源頼朝の法華堂で自刃しました。 梶原景時終焉の地 (静岡市梶原山) 畠山重忠終焉の地 (横浜市旭区) 和田義盛一族墓 (和田塚) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 源実朝が征夷大将軍の時に滅ぼされた御家人の組み合わせはどれか。 (第7回鎌倉検定試験2級) 1 比企能員・梶原景時 2 和田義盛・比企能員 3 比企能員・畠山重忠 4 和田義盛・畠山重忠 源実朝 が将軍だったのは1203年(建仁3年)9月~1219年(建保7年)正月まで。 この間に起こったのは1205年(元久2年)の 畠山重忠の乱 と、1213年(建暦3年)の 和田合戦 。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 次の武士を滅んだ時期が古い順に並べたとき,3番目と6番目になるものを記号で答えなさい。 (第13回鎌倉検定試験1級) ア 源範頼 イ 梶原景時 ウ 和田義盛 エ 比企能員 オ 源義経 カ 三浦泰村 キ 畠山重忠 ク 源頼家 源義経 は、1189年(文

「鎌倉検定」で「鎌倉殿の13人」~梶原景時~

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上総介広常を討った太刀の血のりを、朝夷奈切通のある谷間から湧き出す水で洗ったという伝説がある武将はだれか。 (第1回鎌倉検定試験3級) 1 三浦義村 2 安達泰盛 3 梶原景時 4 和田義盛 1180年(治承4年)、 石橋山の戦い に敗れ、 真鶴 から 安房 に渡った 源頼朝 。 鎌倉入りを目指す頼朝軍に2万騎を率いて参陣したのが 上総広常 でした。 しかし、広常は謀反の疑いをかけられ、1183年(寿永2年)12月、 梶原景時 に暗殺されました。 梶原太刀洗水 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 結城朝光が「忠臣は二君につかえず」と発言したことを[  ①  ]が咎めて将軍頼家に讒訴しようとしていると、[  ②  ]の妹阿波局が朝光に忠告してくれた。これに狼狽した朝光は、三浦義村、安達盛長などに相談して、多数の御家人らによる弾劾連判状を提出した。これが[  ①  ]の失脚の契機になったのである。 (第6鎌倉検定試験1級) 結城朝光 を讒言したことで御家人66人の弾劾にあい、1199年(正治元年)12月18日、鎌倉を追放となった 梶原景時 。 1200年(正治2年)1月20日、景時は子息らとともに上洛するため 一宮館 (現在の寒川町)を出発しますが・・・ 駿河国清見関 付近で在地武士と合戦となり、景時は嫡子景季とともに討死し、梶原一族は滅亡しました。 重用してくれた 源頼朝 が亡くなってから、ちょうど1年後の事でした。 梶原景時終焉の地 (静岡市梶原山) 梶原父子の墓 (静岡市梶原堂) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 笛田運動公園の近く、仏行寺の裏山の頂上には、武勇で知られる梶原景季の片腕を埋めたという[ ① ]塚がある。妻を祀ったといわれる鎌倉山にある[ ② ]塚は、[ ① ]塚と向い合うように建っている。 (第3鎌倉検定試験1級) 梶原景季は景時の子。 1200年(正治2年)1月20日、父景時とともに 駿河国清見関 で最期を遂げました。 仏行寺 の景季の塚は 「源太塚」 と呼ばれ、鎌倉山の妻信夫の塚は 「しのぶ塚」 と呼ばれています。  仏行寺の源太塚 鎌倉山のしのぶ塚 仏行寺 景季の妻信夫(しのぶ)は、景季が死ぬと悲しみのあまり自害したのだと伝えられています。 仏行寺

「鎌倉検定」で「鎌倉殿の13人」~大江広元・中原親能~

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公家の出身で、源頼朝・頼家・実朝3代に仕え、政所(はじめ公文所)の初代別当としてその政治を補佐した人物はだれか。 (第3回鎌倉検定試験2級:歴史・旧跡の問題) 1 三善康信 2 大江広元 3 平賀朝雅 4 九条兼実 三善康信 は 問注所 の執事。 出家後は善信と名乗っています。 康信の母は 源頼朝 の乳母の妹であったので、頼朝が伊豆 蛭ヶ小島 に流されていたときも都の情勢を定期的に伝えていました。 平賀朝雅 は 新羅三郎義光 の血を引く源氏で、 畠山重忠の乱 のきっかけを作った人物です。 牧の方の陰謀 が発覚後、京都で殺害されています。 九条兼実は藤原5摂家の九条家の祖。 頼朝の信頼を得て摂政関白にまで上り詰め、頼朝の征夷大将軍任官にも努力しました。 大江広元 は公文所、政所の別当となり、頼朝の右腕として活躍します。 大江広元邸址碑 大江稲荷 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 公文所・政所別当をつとめた[  ①  ]は、その兄弟で、相模国の武士に育てられた[  ②  ]が源頼朝に仕えた縁で、源頼朝に招致され、出仕することになった。 (第6回鎌倉検定試験1級:記述式の問題その3) 石山寺の毘沙門堂 (大津市) 『石山寺縁起』によると・・・ 建久の頃、 源頼朝 に山城国和束の反乱を鎮めるよう命じられた 中原親能 は、 石山寺 で祈願。 すると毘沙門天が現れ、その加護によって反乱を鎮圧できたのだといいます。 親能 は、その恩に報いるため、 石山寺 に勝南院を建立したのだそうです。 頼朝と亀谷禅尼の宝篋印塔 (大津市:石山寺) 亀谷禅尼は 中原親能 の妻。 源頼朝 の次女 三幡 の乳母を務めました。 剃髪後に 石山寺 に住して宝塔院を建立し、本尊の大日如来の胎内に頼朝の髪を収めて日々勤行したのだといいます。 石山寺 の頼朝寄進と伝えられる 多宝塔 の傍らには、頼朝と亀谷禅尼の 宝篋印塔 があります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 墓及び供養塔について,次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。 (第10回鎌倉検定試験2級:歴史・旧跡の問題) 1 大江広元墓とされるのは,西御門にある源頼朝墓の東側山腹にある三つのやぐらの中央, 及び明王院裏山の層塔である。 2 極楽寺開