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北条泰時が執権になった日。

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1224年(貞應3年)6月13日、二代執権 北条義時 が急死。 6月26日、知らせを受けた 北条泰時 が 六波羅 から鎌倉に到着。 そして、6月28日、 北条政子 と対面。 「 北条時房 を後見役として武家政治を執行するように」と命じられました。 急ぎ過ぎるのではないかと心配する 泰時 に 大江広元 は、 「遅すぎるくらいです。 世間の人々が何かと疑いをもたないうちに決めてしまった方が良いでしょう」 と語ったのだといいます。 義時 の死後、鎌倉では 泰時 が弟の政村らを討ち滅ぼすため京都を出発したという噂が流れていたそうです。 政村の母は 伊賀の方 。 伊賀の方は、娘婿の一条実雅を将軍にして、政村を執権に据えようと企てていたのだといいますが、 泰時 は伊賀の方の謀反を否定しています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

2021光明寺の観蓮会

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伊豆国の源頼朝を訪問した三浦義澄と千葉胤頼

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『吾妻鏡』によると・・・ 1180年(治承4年)6月27日、大番役で京都に行っていた 三浦義澄 と千葉胤頼が、その帰路、 源頼朝 に会うため、伊豆の 北条館 を訪ねています。 本当は5月の中頃に帰ってきたかったようですが、 源頼政 との宇治合戦などがあって遅くなってしまったようです。 二人と対面した頼朝は、何やら話をしていたようですが、その内容は不明です。 ただ、平家が頼朝の命を狙っている時ですから、 挙兵 のことについて打ち合せしたものと思われます。 三浦義澄 は、相模国三浦郡の 衣笠城 を居城としていた 三浦義明 の嫡男。 8月に 挙兵 することとなる頼朝が、一番頼りにしていたのが 三浦義明 だったようです。 千葉胤頼は、下総の有力豪族・ 千葉常胤 の六男。 頼朝に 鎌倉入り を進言したのはが 千葉常胤 だったそうです。 北条氏邸跡 (伊豆の国市) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

北条政子の憤りで梟首された藤内光澄

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『吾妻鏡』によると・・・ 1184年(元暦元年)6月27日、 北条政子 の憤りから藤内光澄が梟首されました。 藤内光澄は 堀親家 の家臣。 この年の4月21日、 源頼朝 は逃亡した木曽義高を探し出して討ち取るよう 堀親家 に命じました。 5日後の4月26日、藤内光澄が鎌倉に戻り、義高を入間河原で誅殺したことを報告します。 このことを聞いた義高の婚約者だった頼朝と政子の娘 大姫 は、嘆き悲しみ、水も喉を通らなってしまいます。 藤内光澄が梟首されたのはこの事が原因。 義高の死から大姫は病の床についたままで、日毎に重くなっていました。 政子は次のように頼朝を追求しています。 「大姫の病気は義高が殺されたことが原因。 したがって、藤内光澄のせいである。 命令であったとしても、なぜ内々に詳しい事情を大姫に知らせなかったのか・・・」 言い逃れできない頼朝は、藤内光澄を梟首するよう命じたのだそうです。 清水八幡宮 (狭山市) 清水八幡宮 は木曽義高を祀る社。 首を取られた義高の遺体は、里人の手によって入間河原に葬られたのだと伝えられています。 堀親家館跡碑 (伊豆市) 堀親家 は、 源頼朝 が 伊豆国 の流人だった頃からの側近。 1180年(治承4年)8月17日、頼朝の 源氏再興の挙兵 に参じ、 山木館襲撃 ・ 石橋山の戦い で活躍した武将。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

安達館があったのは無量寺ヶ谷

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鎌倉歴史文化交流館 のある場所には、京都の 泉涌寺 末の無量寺があったのだといいます。 無量寺は安達邸内にあった寺院ともいわれ、『吾妻鏡』によると、1265年(文永2年)、安達義景の十三回忌供養が行われています。 古くから安達館は、 甘縄神明神社 の東南あたりがそうではないかと伝えられてきたようですが、近年では無量寺ヶ谷(現在の扇ガ谷)にあったと考えられているようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ (参考:明王院建設計画) 『吾妻鏡』によると・・・ 四代将軍 藤原(九条)頼経 による創建とされる 明王院 は、その建設予定地が二階堂→甘縄→大倉と変更されました。 甘縄に変更されたときには「安達義景の南、千葉時胤の北、西山の周辺」と記されています。 千葉氏の屋敷は市役所の北側辺りにあったのだといわれています。 甘縄というと長谷の 甘縄神明神社 近辺と考えてしまうかもしれませんが、鎌倉時代の甘縄の範囲は坂ノ下の 御霊神社 辺りから扇ヶ谷を含めた広範な地だったようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

杉山検校の福石~江の島~

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杉山検校(けんぎょう)は、本名を和一といい、幼いときに失明しました。 鍼医を学んでいましたが、なかな上達しなかったので、 江の島 の弁財天に参籠します。 そして、満願の日に石につまずいたのがきっかけとなって、徳川綱吉の病気をも治したという「管鍼法」の技術が誕生しました。 「検校」というのは、盲官の最高位になります。 石につまずた和一は、その時に竹筒を拾います。 その竹筒の中には松葉が入っていました。 この竹筒の中の松葉が和一の体を刺したことから、管鍼法の技術が考案されたと伝えられています。 管鍼法の技術を得た和一は、徳川五代将軍綱吉の信頼を得ます。 そして、江戸本所に「杉山流鍼治導引稽古所」が設立されます。 手前の石柱は、和一が建てた江の島弁財天の道標です。 杉山検校の墓 関八州の当道盲人を総括する「惣禄検校」にまでなった和一は、1694年(元禄7年)、本所の私邸で亡くなります。 江の島 には、和一の一周忌に門人の三浦安一によって墓が建てられました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 江島神社 の朱塗りの鳥居のそばにある狛犬です。 長堀検校という人が奉納したもので 江の島 で一番大きな狛犬ということです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ