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野木神社~下野国寒川郡七郷の総鎮守~

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野木神社は、1183年(寿永2年)、志田義広が 源頼朝 に対して反乱を起こした際、 小山朝政 が陣を張った社( 野木宮合戦 )。   イチョウ (野木町天然記念物) 本殿 野木神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河は北条義時

小山政光・寒川尼像~小山市~

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  思川の堤防上にある 小山政光 と 寒川尼 の像。  小山政光は下野国小山荘を本拠とした武将。 寒川尼は政光の妻。 源頼朝 の乳母を務めた女性です。 思川を望む二人。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

小山城跡(祇園城跡)

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  小山城 は、 小山政光 の築城と伝えられています。 城内に 祇園社 を祀ったことから祇園城とも呼ばれました。 イチョウ 小山城落城の折、姫君が古井戸に身を投げた際、目印に刺した伝えられる古木。 また、姫君の霊が傍らのイチョウに宿り、実を結ぶことがなかったという伝説から、「実なしいちょう」と呼ばれてきたのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河は北条義時

源頼朝が幕府に新設した公文所

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1184年(元暦元年)8月24日、幕府に新たに設置される公文所(のちの政所)の上棟式を 三善康信 (善信)と 藤原行政 (二階堂行政)が担当。 10月6日には、 大江広元 が別当に任じられ、 中原親能 ・ 二階堂行政 ・ 足立遠元 ・中原秋家・藤原邦通らが寄人(よりゅうど)に任じられています。 その公文所は、1191年(建久2年)1月15日に政所と改められています。 ただ、源頼朝は1185年(元暦二年)4月27日、平宗盛を捕らえて朝廷へ差し出した功によって従二位を与えられています。 政所は、親王や三位以上の公卿に許された家政機関。 三位以上の公卿という要件をクリアしているので、鎌倉幕府の政所は1185年(元暦二年)の設置という説もあるようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河は北条義時

手向山八幡宮の鳩

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  鳩は八幡神の使い。 ~源氏と鳩~ 『吾妻鏡』によると・・・ 壇ノ浦の戦い のときには、源氏の屋形船の上に二羽の白鳩が現れたそうです。   奥州征伐 のときには、二羽の鳩が刺繍された源氏の白旗の作製されました。   手向山八幡宮 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて!

石橋山敗戦後の北条時政の不思議な行動

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北条時政像 (伊豆の国市: 願成就院 ) 『吾妻鏡』によると・・・ 1180年(治承4年)8月24日、 石橋山の戦い に敗れた 源頼朝 は、椙山の堀口辺りに陣を構えます。 現在の湯河原町鍛冶屋とされ、瑞応寺付近とする説や幕山公園付近とする説があるようですが、正確な位置は不明です。 鍛冶屋の山中には頼朝が隠れ潜んだという 「しとどの窟」 があります。 その頃、 北条時政 ・ 宗時 ・ 義時 の親子は 大庭景親 の軍勢と戦っていましたが、戦いに疲れて峰を登れずにいたため、 頼朝 とは行動をともにはしてはいませんでした。 時政 らに供をしていた武将は、「時政にお供していきたい」と申し出ますが、 時政 は、「早く頼朝を捜してお供をするように」と命じたのだといいます。 その後、 時政 と 義時 は箱根の湯坂道を通って甲斐国へ向かおうとし、宗時は土肥から桑原へ下り平井郷へ向かいます。  このとき、 宗時 は早川で 伊東祐親 軍に囲まれて討たれてしまいます。 甲斐国へ向かおうとしていたはずの 時政 は・・・ 夜には頼朝の椙山の陣にいました。 この日のうちに頼朝は 箱根権現 へ。 ※湯坂路は箱根湯本から芦之湯へ至る古道。 ❓甲斐国へ向かう途中で頼朝と合流したのだろうか?湯坂路を登ったはずの時政が椙山の陣に行けるのだろうか???椙山の陣が何処かは不明だが頼朝が隠れ潜んだという 「しとどの窟」 周辺なのかと・・・ 8月25日、頼朝は 箱根権現 を出て土肥郷へと向かい、時政は事の次第を甲斐源氏に伝えるため箱根権現の僧の案内で甲斐国へ向かいます。 ところが・・・ 頼朝の落ち延び先を確認するために引き返し、土肥郷へ向かっています。 ❓甲斐国へ向かったのはおそらく頼朝の命のはず、頼朝はこれからの行動予定を知らせていなかったのだろうか・・・ 8月27日、 時政 ・