源頼朝を討とうとした左中太常澄
鶴岡八幡宮 の 上棟式 が行われた1181年(養和元年)7月20日。 式典を終えて退出した 源頼朝 の供奉者の中に背丈が7尺(約2メートル)もある男がいました。 そして・・・ 下河辺行平 がこの男を取り押さえ、御所の庭に引き出しました。 男は渋柿色の直垂の上下の下に腹巻(鎧)を着けて、髷に名札をつけていました。 名札には「安房国の故長狭常伴の郎党・左中太常澄」と書かれていました。 何故名札をつけているのか聞くと・・・ 「事の良し悪しを弁解するつもりはない。斬り殺せ」と答えます。 下河辺行平 が「梟首は当然だが、その理由がわからなければ、お前も死ぬ意味がないのではないか?」と問うと、常澄が話し始めました。 「去年の冬に安房国で主人が誅殺され、従者らは流浪の身となり、目が覚めても眠っていても、そのわずわらしさが休まりませんでしたので、宿意を晴らすため、お屋敷辺り佇んでおりました。討たれて死骸となってしまったときに、名を知ってもらうために名札をつけておりました」 頼朝は、「子細を聞くことはない。処刑せよ。ただし、今日は鶴岡八幡宮の上棟式なので明日にするように」といって、常澄を 梶原景時 に預けたのだそうです。 翌 21日、常澄は 片瀬 に連行されて処刑されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 左中太常澄の主人・長狭常伴は、1180年(治承4年)9月3日、安房国へ渡った頼朝の宿舎を襲撃しようとして 三浦義澄 に討たれています。 参考 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 下河辺行平 は頼朝に褒められます。 そして褒美の要望を聞かれると「朝廷へ馬を献ずることが農民の大きな負担になっています」と答えます。 頼朝は行平の要望どおりに、下総国下河辺御厨の別当に対して、 下河辺行平 に課している馬の献上を免除した旨の文書を発出しました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆