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特別展「ぼんぼり祭の誕生」~鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム~

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今年6月に開館した 鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム では、 ぼんぼり祭 の誕生から近年に至るまでの歴史を回顧する特別展が開催されます。 ぼんぼり祭 は、8月7日から9日の3日間。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 夏休み鎌倉計画! ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2019ぼんぼり祭の日程~鶴岡八幡宮~

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今年の 鶴岡八幡宮 の ぼんぼり祭 は8月7日(水)から9日(金)までの3日間。 鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム では、特別展「ぼんぼり祭の誕生」が開催されます。 8月1日(木)から8月25日(日)まで。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 夏休み鎌倉計画! ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉で立正安国論を書いた日蓮

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日蓮聖人像 ( 妙本寺 ) 1222年(承久4年)、現在の千葉県鴨川市(旧安房郡天津小湊町)で誕生した 日蓮 。 1233年(天福元年)に清澄寺(千葉県鴨川市)に入門し、1238年(暦仁元年)、16歳で出家して是聖房蓮長と名乗ります。 その後、 比叡山 や高野山などでも学んでいますが、生涯よき師に巡り会うことがなかったという日蓮。 書物を師として学んだともいわれています。 そして、「法華の教えこそ釈迦が本当に説きたかったもの」という結論に達します。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1253年(建長5年)、法華宗を開いた 日蓮 は、翌年、鎌倉に出て布教を開始しました。 名越の松葉ヶ谷に草庵を結んだのだと伝えられていますが、その場所が何処なのかは特定されていません。 日蓮乞水 日蓮乞水 は、1254年(建長6年)、 名越切通 を越えて鎌倉に入った 日蓮 が、持っていた杖で地面を突き刺して湧き出させたという伝説の水。 日蓮が鎌倉に入った頃に弟子となったのが、天台宗の僧であった日昭と、日昭の妹の子日朗でした。 實相寺 (日昭が開いた寺) 光則寺 (日朗が開いた寺) 辻説法跡 日蓮 は、 小町大路 を中心に 辻説法 を行っていました。 日蓮が辻説法を始めた頃の鎌倉は、天災地変があいついで起こっていたといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉で布教を続けてきた 日蓮 は、1260年(文応元年)7月16日、 『立正安国論』 を書き上げ、 宿谷光則 を通じて当時の最高権力者・ 北条時頼 に提出します。 その冒頭には、 「天変地異・飢饉・疫病が遍く天下に満ち広く地上を覆っている。 牛馬はそこかしこに倒れ人の屍は路にあふれている。 死者は大半を超へ、これを悲しまない人は一人もいない」 と記されています。 この頃の鎌倉は、地震や洪水などの自然災害が頻発していました。 当時の鎌倉の街は『立正安国論』の冒頭に記されたとおりの状況であったと考えられています。 さらに、法然の念仏を批判し、 「念仏を禁止して正しい教えを広めなければ外国の侵略があり内乱が起こる」 と予言しています。 蒙古襲来(元寇) と 二月騒動 の予言だったのだと言われていま

源頼朝の長女大姫

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武者鑑一名人相合南伝二 ( 国立国会図書館デジタルコレクション) 源頼朝と北条政子の長女大姫は、まだ頼朝が伊豆の流人だった1178年(治承2年)の誕生と伝えられています。 大姫は、長女を意味するもので、本名が何だったのかは不明です。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1183年(寿永2年)、 木曽義仲 の長男・義高(清水冠者)が人質として鎌倉に送られてきます。 名目上は、大姫の婿ということだったようです。 義高が11歳、大姫は6歳くらいだったといいます。 📎志田義弘の反抗と木曽義仲との対立 義高によく懐いていたという大姫でしたが・・・ 1184年(寿永3年)正月20日、頼朝は弟の 範頼 と 義経 に命じて、義高の父 木曽義仲 を滅ぼし、4月になると義高も誅殺することを決めます。 義高誅殺の事は、大姫には知られないようにしていたようですが、女房らが知らせてしまったのだそうです。 木曽義仲の墓 (大津市:義仲寺) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~大姫、義高を逃がす~ 1184年(元暦元年)4月21日の夜明け前、大姫は義高に女装をさせ、大姫の女房達が義高を囲んで屋敷から出しました。 馬は、他の場所に隠してありました。 馬蹄には真綿が巻かれ、蹄の音を人に聞かれないようにしてあったといいます。 義高の寝床には、海野小太郎幸氏が臥し、日が昇ると、双六をして義高がいるふりをしていました。 しかし・・・ 晩になってばれてしまいました。 怒った頼朝は、幸氏を捕らえ、堀親家以下の者に義高を見つけ出し討ち取るよう命じます。 大姫は、あわてふためき、魂が消えてしまうほどだったといいます。 ※海野幸氏は、義高が鎌倉に送られる際に随行してきた信濃国の武将で 弓馬四天王 の一人。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~義高が誅殺される~ それから5日後の4月26日、堀親家の郎従藤内光澄が戻り、入間河原で義高を誅殺したことが報告されます。 そのことを知った大姫は嘆き悲しみ、水も喉を通らなくなりました。 母 北条政子 も大姫の心中を察して、義高の死を嘆き悲しみ、御所中の多くの男女が悲しみにひたったといいます。 木曽塚 (鎌倉市:常楽寺) 常楽寺 裏山の 木曽塚 には