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鶴岡八幡宮の春と桜2018/03/17

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早咲きの桜 が満開!  ミモザ も 寒緋桜 も 大島桜 も 流鏑馬馬場の桜 も。 源氏池の桜 も あとは ソメイヨシノ の開花を待ちましょう。 神苑ぼたん庭園 が閉園中なので様子がわかりませんが、3月21日の春分の日前後には咲き始めるのではないでしょうか。 鶴岡八幡宮 https://www.yoritomo-japan.com/page041hatiman.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2018桜の開花予想・開花宣言

僧尼不浄の輩入るべからず~鶴岡八幡宮と神仏分離令~

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1868年(慶応4年)、明治政府は神仏分離令を出します。 それに伴って全国で廃仏毀釈の運動が起こりました。 鶴岡八幡宮 でも1870年(明治3年)に薬師堂、護摩堂、大塔、経蔵、仁王門が破壊されます。 鶴岡文庫の模型 (天正期の鶴岡八幡宮) 鶴岡八幡宮境内図 (1732年(享保17年) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~主な仏像の行方~ 【仁王像】 壽福寺 に移され現在も 壽福寺 の本堂に安置されています。 壽福寺仏殿 【弘法大師像】 等覚院 の本尊だったといいます。 松源寺に移された後、 壽福寺 に移されました。 現在は 青蓮寺 に移され本尊として安置されています( 鎖大師 )。 鎖大師開帳 【薬師三尊像】 薬師堂に安置されていました。 松源寺、 壽福寺 を経て現在はあきる野市の新開院に安置されています。 十二神将像も同じです。 薬師三尊像 【銅造薬師如来像】 もと神宮寺の本尊だったといわれる仏像です。 壽福寺 に移されますが、現在は 鎌倉国宝館 に寄託されています(参考: 鶴岡八幡宮の神宮寺と壽福寺の薬師如来像 ) 銅造薬師如来像 【地蔵菩薩半跏像】 松源寺に安置されていました。 長谷寺 に移された後転々とし、現在は横須賀市の 東漸寺 に安置されています。 日金地蔵 【如意輪観音像】 法華堂(現 白旗神社 (西御門))に安置されていました。 現在は西御門の 来迎寺 (西御門)に安置されています。 宅間浄宏作と伝わる地蔵菩薩像も 来迎寺 に移されています。 如意輪観音 【伝源頼朝坐像】 旧 白旗神社 の御神体だったといわれています。 東京国立博物館に所蔵されている像がそれあろうといわれています。 伝源頼朝像 (東京国立博物館蔵) 【地蔵菩薩立像】 扇ヶ谷にあった智岸寺の像で、智岸寺廃絶後、 正覚院 に安置されていました。 現在は 瑞泉寺 の地蔵堂に安置されています( どこも苦地蔵 )。 どこも苦地蔵 【二天像】 鶴岡八幡宮 の経蔵に置かれていましたが、 浅草寺 の東門( 二天門 )に移された後、戦時中に修理先で焼失しまったのだといいます。 浅草寺二天門 ※松源寺は 窟堂 の東側にあ

鎌倉幕府最後の執権:赤橋守時

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1326年(正中3年)3月、十四代執権 北条高時 がその職を辞します。 徳崇大権現堂 (宝戒寺) 得宗家 の内管領長崎円喜と 得宗家 の外戚安達時顕が対立する中の3月16日、十五代執権には金沢流の金沢貞顕が就任します。 しかし、貞顕は、わずか10日で執権職を辞任し出家してしまいました。 その後、十六代執権となったのが赤橋守時でした(参考: 嘉暦の騒動 )。 金沢貞顕の墓 (金沢称名寺) 守時の妹登子は 足利高氏 (尊氏)に嫁ぎました。 1333年(元弘3年)、 高氏 は幕府の命によって、 後醍醐天皇 を中心とする倒幕勢力を鎮圧するため西国に出発します。 『太平記』によると、 高氏 はこのときすでに幕府への反逆を決意していたといいます。 妻登子と嫡子千寿王(義詮)は鎌倉に人質として残されますが、 高氏 が天皇方に付くと鎌倉を脱出し、千寿王は 新田義貞 に奉じられて鎌倉攻めに参加したといいます。 鎌倉幕府を裏切った 高氏 は、5月7日、六波羅を陥落させています。 5月8日には、 新田義貞 が倒幕の挙兵。 そして、5月18日がやってきます。 新田義貞像 (分倍河原駅前) 足利高氏 の裏切り、妹登子と千寿王の鎌倉脱出によって、幕府内での守時の立場は悪くなります。 守時も「裏切り者」として見られていたようです。 そんな中、 新田義貞 が、各地で幕府軍を破り鎌倉に迫ってきました。 守時は新田軍を迎え撃つため洲崎に出陣します。 洲崎古戦場跡の碑 しかし、守時率いる幕府軍は敗れてしまいます。 侍大将南条高直は、 巨福呂坂 まで退いて援軍を待つよう進言しますが、 守時は、 「疑いをかけられては、しばらくも命を長らえるべきではない」 と言って潔い死を選択したといいます。 1333年(元弘3年)5月18日、鎌倉幕府最後の執権赤橋守時は洲崎で自刃しました。 そして、5月22日、鎌倉幕府は 滅亡 しました。 北条守時の墓 (浄光明寺) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆