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鶴岡八幡宮の早咲きの桜とメジロ2018/02/09

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鶴岡八幡宮 の 流鏑馬馬場 に咲いている 早咲きの桜 は、もう少しで満開になってきそうです。 例年ですと、今頃は満開なのですが、やはり寒さのせいでしょうか・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鶴岡八幡宮の春と桜 https://www.yoritomo-japan.com/hana-kesiki/sakura/hatiman-sakura.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

見頃の寒紅梅と遅れている古代青軸~荏柄天神社~2018/02/09

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寒紅梅 満開でしょう。 古代青軸   例年ですと、 古代青軸 は、2月8日の 針供養 の頃には見ごろとなってくるのですが、今年はまだ咲きはじめといったところです。 その他の梅も少しずつ・・・ 荏柄天神社 https://www.yoritomo-japan.com/page041egaratenjinjya.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉梅情報!宝戒寺2018/02/09

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昨年の今頃は、かなり咲いていた 宝戒寺の梅 ですが・・・ 今年は遅れ気味。 「思いのまま」もまだ咲いてません。 枝垂れ梅もまだ・・・ 宝戒寺 https://www.yoritomo-japan.com/page043hokaiji.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2018かまくら長谷:梅まちめぐり

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長谷寺の梅 光則寺の梅 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

平治の乱に敗れた源頼朝が捕らえられた日

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1159年(平治元年)、信西(藤原通憲(みちのり))と藤原信頼が対立。 12月4日、信西の武力後援者である 平清盛 が熊野詣へと出掛けます。 その機をねらって反信西派が動きます。 12月9日夜半、 源義朝 、源光保、 源頼政 らが院御所を包囲し、 後白河上皇 と上西門院(後白河上皇の同母姉)を内裏に移し、信西の西洞院の邸を焼き討ちしました。 この政変を事前に察知していた信西は、山城国田原に逃れていましたが、13日、田原の山中で自害しています。 政変後、信頼は除目を行い、 義朝 を従四位下播磨守、その子 頼朝 を右兵衛佐に任じています。 一方、熊野詣に出掛けていた 平清盛 が政変を知ったのは、12月10日のこと。 一時、清盛は九州に落ちて兵を集めようと考えますが、熊野別当湛快、紀州の湯浅宗重らの応援を得て帰京し、17日に六波羅邸に入ります。 清盛は、25日夜、後白河上皇を密かに 仁和寺 に脱出させ、26日には、二条天皇を六波羅邸に脱出させることに成功します。 そして、信頼・ 義朝 の追討宣旨が下され、六条河原の合戦でこれを破り、反信西派を一掃しました。 信頼は処刑。 義朝 は東国に逃れようとしますが、翌正月3日、尾張国内海荘で旧臣 長田忠致 に暗殺されました。 義朝一行とはぐれてしまった 頼朝 は、2月9日、捕らえられ 六波羅 に送られました。 捕らえられた 頼朝 は、 平清盛 の継母 池禅尼 の懇請で命を助けられ、3月11日、 伊豆国 流罪となります。 流されたのは 蛭ヶ小島 だったと伝えられています。 源頼朝が流された伊豆国 頼朝の兄・義平と朝長は 平治の乱 で討死。 頼朝と同じく 由良御前 を母とする 希義 は、由良御前の兄(弟?)・藤原範忠に捕えられ、土佐国へ流されました。 常盤御前 を母とする今若、乙若は、それぞれ 醍醐寺 と 園城寺 で出家、生まれたばかりの 牛若 は11歳になったときに 鞍馬寺 に預けられています。 頼朝のもう一人の異母弟・ 範頼 は、養父・藤原範季の保護を受けていたものと考えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆