投稿

鎌倉紅葉情報!鶴岡八幡宮2017/11/17

イメージ
だいぶ染まってはきているようですが、見ごろとなるには、もう少し時間がかかりそうです。 源氏池 大銀杏  大銀杏の黄葉は、 12月になってからでしょうか。 📎大銀杏の黄葉 舞殿前のイチョウ 柳原 柳原神池 鎌倉国宝館前 源実朝歌碑 鎌倉国宝館 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鶴岡八幡宮 https://www.yoritomo-japan.com/page041hatiman.htm 鶴岡八幡宮の紅葉 https://www.yoritomo-japan.com/hana-kesiki/koyo/koyo-hatiman.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉紅葉情報!いよいよです。源氏山公園2017/11/17

イメージ
だいぶ染まってきました。 一部で見頃のようですが、来週中頃あたりからが良さそうな感じです。 ツバキもだいぶ咲いてきました。 これはカイドウ。 まだ緑の樹もたくさんあります。 葛原岡神社のイチョウ 📎葛原岡神社のイチョウの黄葉 仮粧坂 上方のカエデはまだ緑。 📎仮粧坂の紅葉 源頼朝像周辺ももう少しでしょうか。 源氏山公園の紅葉 https://www.yoritomo-japan.com/hana-kesiki/koyo/koyo-genjiyama.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

曽我祐信の罪が許され、和田義盛を侍所別当に。

イメージ
『吾妻鏡』によれば・・・ 1180年(治承4年)11月17日、 佐竹征伐 を終えて鎌倉に帰った 源頼朝 は、 和田義盛 を侍所の別当に任命しています。 義盛は、8月の 石橋山 の敗戦後、 安房国 へと渡るときに、この先どうなるかもわからないにも拘わらず、侍所別当の職を要望していたのだといいます。 侍所は軍事・警察の組織。 別当は、そこの最高位の長官です。 和田城址の碑 和田義盛は、 三浦義明 の長男で鎌倉に 杉本城 を築いた杉本義宗の子。 父が亡くなると 杉本城 を弟義茂に任せて、三浦半島東部の和田を開拓しました。 和田城 は和田長浜海岸の近くにあったと考えられていますが、現在は石碑があるのみとなっています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ この日頼朝は、 石橋山の戦い で敵対した 曽我祐信 の罪も許しているようです。 祐信は、のちに 仇討ち を決行する 曽我兄弟 の養父。 曽我祐信の墓 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源頼朝の妻と子

イメージ
~八重姫と長男・千鶴丸~ 伊豆配流の身だった 頼朝 は、監視役だった 伊東祐親 が大番役で京都へ行っているときに、祐親の三女と結ばれ、男子を授かったのだと伝えられてます。 その子は千鶴丸と名付けられたようですが・・・ 3歳になる頃、祐親が大番役から戻ってきます。 自分の娘が頼朝の子を産んだと知った祐親は、平家の聞こえを恐れて千鶴丸を殺害、八重姫も頼朝から取り上げて江間小四郎に嫁がせたのだといいます。 さらに祐親は、頼朝をも討とうと考えて討手を差し向けますが、祐親の次男・祐清がそのことを頼朝に知らせたため、頼朝は 走湯権現 (現在の伊豆山神社)へ逃げ込み難を逃れたのだとか・・・ この事件がいつの頃のことなのかは不明ですし、伝承の域を出ませんが、『吾妻鏡』には「1175年(安元元年)、 伊東祐親 が頼朝を殺そうとし、祐親の次男祐清がそのことを頼朝に教えたため 走湯権現 に逃れることができた」という記録があるようです。 祐親が頼朝を殺そうとしていたことは確かな事のようですが、その原因が八重姫と千鶴丸なのかどうかはわかりません。 ※頼朝を助けた祐清は、頼朝の乳母・ 比企尼 の三女を妻としていました。 📎伊東祐親の娘八重姫との恋 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~正室・北条政子と子どもたち~ 伊東祐親 の討手から逃れた 頼朝 は、 走湯権現 に逃れた後、祐清の薦めで 北条時政 の屋敷に匿われたのだとか・・・ そこには 政子 がいます。 当然の如く結ばれたようです。 結婚した時期は不明ですが、長女の大姫が1178年(治承2年)に誕生していると考えられることから、その前年の1177年(治承元年)頃ではないかと考えられています。 その後政子は、1182年(寿永元年)8月12日に長男の 頼家 、1186年(文治2年)に次女の三幡、1192年(建久3年)8月9日に次男の 実朝 を産んでいます。 📎北条政子と結婚 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~亀の前~ 亀の前は、 頼朝 が流人の頃からの愛人だったそうです。 頼朝は、政子が長男の頼家を懐妊したときに、鎌倉に近い小坪に呼び寄せて小中太光家の屋敷に住まわせました。 その後、飯島の伏見広綱の屋敷に亀の前を移していたのですが・・・ 1182年(寿永元年)11月